追悼


【文化】福田恆存氏の逝去を悼む 松原正 清潔で公平な人だった

[1994年11月21日 東京夕刊]

 きのふ福田先生の死に顔をじつと見詰めてゐて、私は小林秀雄さんの表現を思ひ出した。昔、小林さんが或人に「福田恆存つて清潔な鳥みたいな人だな」と云つたらしいのである。それを当時大学生だつた私は、文藝雜誌か何かで読んで知つたのだが、たうとう先生の死に顔を眺めねばならぬ事になつて、小林さんの表現通りのお人柄だつたとつくづく思つた。

 御厚誼を受けて四十年、先生は私に嘘をおつきになつた事が一度も無い。これはちと卑怯な或いは身勝手なお振舞だなと思つた事も、これまた、ただの一度も無い。「召使にとつては英雄もただの人」といふ意味の英語の諺があるけれども、四十年間、ただの一度も弟子に弱みを見せないやうな師匠は滅多にあるものではない。

 學生時代は、屡々大磯の御宅に泊めて戴いて明け方まで話し込んだし、ロンドンでは一箇月間、同じホテルに滞在して行動を共にしたが、私にとつての先生は常に「清潔な鳥」だつた。先生は清潔なだけで無能な政治家を嫌つてをられたが、御自身は實に清潔で公平だつた。強者だつたからである。學生時代、盲人蛇に怖じず、先生の新作戯曲について五十枚程の批評文を書いてお見せした事がある。無論、生意氣な年頃だから、べた賞めした譯ではないし、べた賞めなんぞしたその時に破門されてゐたかも知れないが、先生は私の文章を丹念に讀んで、私の批判のうち當つてゐると思はれる件りには二重丸をつけて返して下さつた。

 勿論、二重丸が澤山あつた訳ではなくて、「ここは勘違ひ」とか「これは誤字」とかいつた具合の書込みのはうが?(はる)かに多かつたけれども、私はその時、生まれて初めて、私情を交へぬ學問の嚴しさを教へられたのである。

 かういふ事もあつた。先生は清水幾太郎さんを痛烈に批判なさつた事があるのだが、清水さんも先生も保守派の「大御所」が對立しているのは國家の損失である、もしも御兩所に和解する氣があるのなら、私が「手打式」の御膳立てをしようと岸信介元首相が云つてゐる、清水さんのはうは快諾したが、福田さんの意向を確かめてくれないかと、私は遠山景久さんに頼まれたのである。そんな話を先生が承知なさる筈は無いと思つたが、私が代りにお斷りする譯にも行かないから、遠山さんの話を先生に傳へた。すると先生はかう仰つた。一俵の米を脱穀するとね、必ず十粒ばかりは脱穀されない殻粒が出るんだよ。僕の讀者はね、その極く少數の脱穀されない殻粒なんだ。岸さん遠山さんの御好意は嬉しいが、僕が清水さんと和解して、二人の和氣藹々たる對談がどこかの雜誌に出たとしよう。すると、脱穀されない殻粒の僕の讀者が「なぜそんな事が」と云ふだらう。物書きは讀者を裏切つちやいけないんだ。

 福田先生は清水さんの短所だけでなく長所をも認めてをられた。清水さんとは私も面識があつたから、先生の清水評は實に公平で的確だと私は思つた。詰り、いささかの私怨もそこに交つてゐなかつた。清水さんも今はあの世にゐるけれども、新入りの福田先生を照れ臭さうに、けれども快く迎へて、「福田さん、あなたの批判は五重丸だつた」と云ふに相違無い。あの世では眞心が通じる筈だから、必ずさういふ事になると私は信じてゐる。

 福田先生の死に顔は清潔だつた。亡くなられる半月前、病床に横たはる先生の右手をそつと握つたら先生は強く握り締めて下さつた。痩せ衰へた先生の身體の、右手だけが大きくて逞しかつた。あの逞しい右手に握られたペンが、「平和論にたいする疑問」以來、「左翼進歩派」の欺瞞をいとも鮮やかに剔抉して見せたから、全國津々浦々の全うな讀者が留飲を下げたのだが、自民黨と社會黨が「野合」したから、「これあもう駄目だな」と仰つて、晩年の先生は甚だ浮かぬ顔だつた。「僕の言論も結局は虚しかつたなあ」とも仰つた。

 先生が死んでしまはれて、私は淋しい。悲しいといふよりも淋しい。けれども、柳田國男によれば、日本人は「死んでも死んでも同じ國土を離れず、しかも故郷の山の高みから、永く子孫の生業を見守る」のだといふ。私は柳田の説を信ずる。もう死んでもいい筈なんだが「どうやら神樣が僕の事を忘れてしまつたらしいんだよ」と先生は仰つた。葬儀は仏式で行はれるが、先生も矢張り神道の信者だつたのだと思ふ。私も神道の信者だから、今、かうして先生の思ひ出を綴つてゐる私を、書齋の片隅から先生の靈が見守つていらつしやるやうな氣がする。

 四十年もの附合ひだつたのに「御冥福を祈る」なんていふ紋切型だけは云はずに濟ませたな、よし、二重丸をやらうと、先生が聲を掛けて下さるやうな氣がする。やがては私もあの世で先生に再會する事になる譯だが、その時にも二重丸を頂戴できるやう、先生に肖つて、學生に對しても努めて「清潔公平」に振舞はうと、不肖の弟子は思つてゐる。

 福田先生、ひとまづ、さやうなら。

               ◇

 まつばら・ただし 早大教授。英文學。演劇。昭和四年、東京生まれ。

 ?=謠の言べんをしんにゅうへんに=遥の俗字


【文化】追悼 福田恆存という存在/松本健一 孤絶したリベラルの清々しさ

[1994年11月27日 東京朝刊]

 福田恆存が漂わせていた、清々しさというのは、あれは何によって生まれていたのだろう。

 わたしは生前の福田さんとは、何度か機会があったにもかかわらず、ついにお会いすることがなかった。それゆえ、その清々しさの印象は、人間的な交流のなかで抱いたものではない。福田恆存という批評家が、言葉や思想に賭けた一種の潔さが、わたしにそう感じさせたのにちがいない。

 たとえば、もう十数年まえになるが、清水幾太郎が『核の選択−−日本よ国家たれ』を著したとき、福田恆存は、「近代日本知識人の典型清水幾太郎を論ず」(一九八〇年)で、激しくこれを批判した。

 「平和運動も、反安保運動も、天皇制も、憲法第九条も、原爆も、核も、ナショナリズムも、忠誠も、氏にとつて必要とあらば、その他、何でも彼でも手当り次第、保身の為の小道具、自衛の為の防衛として利用される。……清水氏が強調してゐるソ連の脅威を、氏自身、本当に感じてゐるのかどうか、私には頗(すこぶ)る疑はしい」

 これは、福田恆存が『核の選択』に清水じしんの言葉とはちがったものを感じとり、それがいわばアジテーター(煽動家)の文章になっていると判断した、ということだろう。つまり、言葉の底に、おのれの心がない、と。

 福田恆存はそのように判断したとき、きわめて苛烈な論争家になる。かれが嫌ったのは、そこにおのれの心がないのに、それを海外からの新しい知識やきらびやかな言葉で飾ろうとする、進歩的知識人や文化人であった。それゆえ、その進歩的知識人や文化人には、マルクス主義者ばかりでなく、横光利一などの文学者もふくまれていた。

 福田恆存のさいしょの文芸評論といえる、六十年ちかくまえの「横光利一と『作家の秘密』」(一九三六年)には、横光の畢生(ひっせい)の大作である『旅愁』に対する、次のような否定話があった。

 「なによりもそこに窺(うかが)へる事実は作者そのものの俗物性であり、人間性と知性との浅薄さであらう。

 『旅愁』は全巻ことごとくこのやうな彼の俗物性とその艤装とによつて満されてゐるではないか。

 横光利一はあらゆるものを踏み台にして自己肯定をもくろむ。……僕たちは作者の意思と良心との所在をつひに明らかにしえないのである」

 こういった若き日の福田恆存の文章をよみかえしてみると、かれが生涯にわたって目ざしていたのは、言葉に心をこめること、そうしてそのことによって自己の保身(自己肯定)ではない、いわば無私の精神によって世界と対峙することだった、と改めておもう。その無私の精神によって、孤絶の場所に立っていることが、福田恆存の清々しさのみなもとだったのにちがいない。

 思い出す。−−五、六年まえ、わたしが「世界史のゲーム」をめぐる論考を発表したとき、福田さんがそれに多大な関心をいだいていることを耳にした編集者が、わたしとの対談を福田さんにもちかけた。すると福田さんは、「脳梗塞のため言葉があまり自由にならないから、無理だ」といいつつ、「松本さんは大塩平八郎だね」と批評したそうである。

 おそらく、このとき、わたしは福田さんに対談などでなく、私的に会いにゆくべきだったのである。そう、いまになって悟るところに、わたしの迂闊(うかつ)さがあるのかもしれない。いずれにしても、わたしは日本における稀有のリベラルと話合う機会を、永遠に失ったのだった。

 こういった迂闊さは、しかし、わたしが福田さんの名を記憶にとどめたのが、まず文学史上の存在としてであったことと、微妙に関わりがあるのかもしれない。

 敗戦後まもなくの「政治と文学」論争で、福田恆存は「一匹と九十九匹と」(一九四七年)と題した卓抜な文章を書いた。これは、政治の優位性を主張したマルクス主義者・中野重治と、文学の自律性にこだわろうとした近代主義者・平野謙らの論争に割って入ったものである。−−九十九匹を救おうとするのが政治であるから、いかに「善き」政治であっても、一匹は野に迷う。この一匹を問題にするのが、文学である。だが、と福田はいう。

 「文学者たるものはおのれ自身のうちにこの一匹の失意と疑惑と迷ひとを体感していなければならない。……一流の文学はつねにそれを九十九匹のそとに見てきた。が、二流の文学はこの一匹をたずねて九十九匹のあひだをうろついてゐる」

 そうだとすれば、福田恆存の発していた究極の問いは、わたし(たち)の言論がそのような「一流の文学(言葉)」たりえているかどうか、なのである。会って話をするかどうかではない。そのように改めておもうことで、わたしは福田恆存さんの死を送ったのだった。

  まつもと・けんいち 評論家。日本近代思想史。昭和二十一年、群馬県生まれ。東大経済学部卒。『開国のかたち』『日本人が世界史を描く時代』など著書多数。


【文化】追悼 福田恆存という存在/入江隆則 ルサンチマンとの闘い

[1994年11月27日 東京朝刊]

 福田恆存氏が亡くなられた。心よりご冥福をお祈りしたい。去る二十二日に大磯の妙大寺での密葬で“死に顔”を見せていただき、それから家に帰って、氏の著作を何冊か取り出して頁をくってみた。そしてどの頁を開いても、突き刺さってくるような、あの硬質の文体が充満しているのを再発見して、改めて衝撃を受けている。

 私の知っている福田氏はまことに爽やかな人だった。二十年近く前に最初にお目にかかった時にもそう思ったが、その後いろいろな席でお会いする度にそう感じ続けてきた。“竹を割ったような”という形容がぴったりの人だった。

 何年か前に三省堂で『シェイクスピア・ハンドブック』という本を、福田氏の監修で、編集委員の末席に私も加えていただいて、出したことがあった。毎月一度くらいの頻度で会合を持ち、本の構成や執筆者の人選などについて相談をした。その頃の福田氏はまだお元気で、毎回仕立てのいい上品な背広を着て出席をされて、熱心に意見を述べられた。ユーモアと機知に富んだ言葉がポンポンと飛び出して、まことに楽しい会だったが、その楽しさの底に流れていたのは、やはりなんとも言えない福田氏の人柄の爽やかさだったという記憶がある。

 その爽やかさがどこから来たのかと考えてみると、自然に思い出されるのは、氏が『現代人は愛し得るか』という卓抜なタイトルで訳された、D・H・ロレンスの評論『アポカリプス論』である。この評論は、いわば一種のルサンチマン論で、ロレンスは新約聖書の「ヨハネ黙示録」の根底にある感情を、ひろい意味での“社会的な恨み”、つまりルサンチマンにあると見て、その流れが西欧文明を毒して来たと指摘している。それを福田氏は、見事な日本語に訳されていた。

 福田氏は、戦後の日本社会のなかで、昭和二十年代から最近に到るまで横行していた、いわゆる“進歩的文化人”と称する人々の言動や、その結果として生じた“左翼的風潮”を、早くから孤立を恐れずに批判してきた論客として知られており、その意味で、今日では一層尊敬されるに到っている。私はそういう福田氏の批評のいちばん深いところにあった精神は、ルサンチマンへの嫌悪だったと考えている。

 ルサンチマンの感情はいつの時代にも、またどこの国の社会にもあり、それによってしばしば歴史が動かされる場合があるのは、ロレンスが指摘している通りだが、日本に関して言えば、過去五十年間の“戦後”と呼ばれた時代ほど、この始末におえない不毛な感情が、陰湿で自虐的な一種のイデオロギーとなって風靡した時代はなかったのではないだろうか。

 マルクス主義という教義自体が、本来ルサンチマンに根ざしたもので、それが旧ソ連等での七十年の実験を経て、無残にも崩壊したのは周知の通りだが、日本の“戦後”の場合は、それに日本の昔からの農耕社会的な要素や、アメリカの初期の占領政策によるゆがみも加わって、偽善が至上の価値になり、弱者のポーズが喝采されるという倒錯が生じたかに見える。

 福田氏の鋭敏な嗅覚が鋭く嗅ぎわけて、果敢に闘い続けてきたのは、そういう情況に外ならなかった。もともと文芸評論家として出発した福田氏が、次第に文学それ自体よりも、内外の政治や防衛にかかわる問題を力を込めて論ずるようになり、それがいわゆる政治学者や防衛問題の専門家にはない迫力と説得力を持ち得たのは、まさにそういう氏の関心のありかのためだったと思う。

 つまり福田氏にとっては、政治も防衛も人間論だったのであって、氏の著作の一つに『人間不在の防衛論議』というタイトルの本があるのは、氏の姿勢を如実に物語っている。氏はある場所で、「私は小悧口な要領のいゝ人間は嫌ひである。私は何々派だの何々主義者だのであつたことは一度もない。私は何を書いても、たゞ人間について、常識的に論じてゐるだけである」と書かれているが、しかし“人間について常識的に論”ずるのが至難だという事情は、今日只今でも少しも変わっていない。ということは、福田氏の著作を読み返すことが、われわれにとって依然として必要だということになるはずである。

 福田氏が健康を害しておられることは、以前から聞いていた。数カ月前にお見舞いに行かないかと友人に誘われたが、都合がつかず同行できなかった。いずれまたと思っているうちに、突然の訃報に接した。こんなことなら、あの時どんな無理をしてでも大磯にまでお邪魔をしておけばよかったと思ったが、後の祭りとなった。

 福田氏は、「死はそれほど恐ろしいものではないよ」とか「死はそれほど悪いものでもないよ」というようなことを、その時語られたという。いかにも福田氏らしい言葉だと感じたが、それを実際にこの耳で聞いておきたかったという思いが、しきりにする。

 そうしていれば、いつも私が感じていたあの爽やかさを、もう一度味わう機会になったに違いない。最後にもう一度氏のご冥福を心からお祈りしたいと思う。

 いりえ・たかのり 明治大教授。比較文明・比較文学。昭和十年、横浜市生まれ。京大文学部卒。都立大大学院修了。『幻想のかなたに』『新井白石』『敗者の戦後』『日本がつくる新文明』など著書多数。


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