記事−産經抄


【産経抄】

[1994年11月22日 東京朝刊]

 「正論」創設(昭和四十八年)からのメンバーのお一人だった福田恆存氏(八二)は、戦後の潮流や風向をはかる偉大な“定点観測船”である。日本を見すえた福田さんの主張は一貫して小ゆるぎもしなかった ▼その“定点”のかたわらを台風や低気圧たちが通り過ぎては消えていったのが戦後の思想状況だったろう。「世の中随分変わりましたね、あなたが二十五、六年前、平和論の迷妄を批判した時と比べると、とよくいわれる」。そういう福田さんの述懐があった ▼社会主義体制の命運にしても、防衛や憲法の論議にしても、福田さんが孤軍奮闘その偽善を批判した進歩的文化人や進歩的マスコミは、いま手のひら返して論旨を改め、口をぬぐって往時の前言には知らん顔をしている。ある意味で世の中変わっていない ▼福田語録には味わい深いものがいくつもあった。たとえば「ガラス張りという言葉を人びとは好むが、これほど危険なものはなく、何でも見えるようにしておくと、人は必ず何か大切なものを見落とすのである」(昭和55年) ▼またたとえば「民主主義というのは、単に一つの方法・手段であってそれ自体に価値はない。戦後の日本では平和などと付け合わせにされて誤解と混乱を生じた。平和の状態はそれが理想や善そのものではなく、その上で何をするか、何をしたいかなのだ」(同48年) ▼果敢な論陣を張りつづけた生涯だが、その人にして「言論は空しい。いや言論だけではない、自分のしている事、文学も芝居も、すべてが空しい」という言葉がある。「が、それを承知で、私は何かをして行く」と(同55年)。だからこそ福田さんの言説は強靭(じん)であった。


【産経抄】兵庫県南部地震

[1995年01月21日 東京朝刊]

 世の中には事態が逆さまになることもある。未曽有の苦難の中にある現地の被災者から、新聞があべこべに励まされた。勇気を与えられて感動したという出来事はそれだろう。いきさつはこうである ▼神戸出身の同僚記者のところへ西宮の友人から電話がかかってきた。家は半壊、周辺は大混乱だったが、命一つだけ助かって十九日の産経新聞を手にしたという。そこで産経抄を読み、谷崎潤一郎の“証言”を知って元気が出たというのである ▼大谷崎は関東大震災に遭って東京を逃げだし、神戸に移り住むが、被災者列車が大阪や神戸の人びとの温かい救助を受けたと書いていた。「おれたち関西の父祖たちは人情に厚く、心優しかったのを知った。いまは関東へ逃げだしたいくらいだが、しかしがんばって立ち直る」 ▼友人の電話はそういって切れたそうだ。廃虚のような街で、彼がどのように新聞を入手したかは聞きもらしたが、災害時に必要なのはパンと水だけにあらず、情報も大事であることが示唆されていた。災害情報の王者はラジオだろうが、新聞だってお役には立つ ▼敬愛する故・福田恆存氏は「言論は空しい」といい切った。「が、それを承知で私は書いていく」と。そういう痛切な自覚を持ちつづけていたからこそ福田さんの言説は人の胸を重く打った。こんどの大震災報道においても、言論がどれだけの責任を果たしたか ▼いささか心もとないのだが、廃虚の街から知らせて下さった同僚の友人によって、厳しく心を引き締めたのだった。産経新聞は関西に生まれており、多くの読者がこの震災の犠牲になられた。重ねてご冥福を祈り、苦闘する読者の再起を願う。


【産経抄】歴史

[1995年12月05日 東京朝刊]

 「歴史はわれわれが作り出したものではない。作り出すものでもない。歴史がわれわれを作り出したのだ」と言ったのは、亡くなった評論家の福田恆存氏だった。「われわれは歴史の中に生まれて来ている」と ▼言葉をかえて福田さんはこうも書いていた。「歴史とは共有された過去である」「歴史の書きかへといふのは、不用意に行へることではない、また行ふべきではない」。泣いても笑っても、私たちは民族の歩いてきた道(過去)から逃れるわけにいかないということだろう ▼韓国の金泳三大統領が盧泰愚氏についで全斗煥氏をも逮捕して隣人を驚かせた。盧氏の横領事件はともかく、全氏の問われているクーデターは十六年も前の“歴史”であり、有権者の承認を受け、捜査もすでに起訴猶予処分となっていた ▼金大統領自ら「歴史の審判にゆだねる。処罰は新たな対立を再現させる」と述べてきた方針が、突如として「歴史は正さなければならない」へと一変した。なぜここへきてにわかに「誤った過去の清算」をいそぐことになったか、その意図と思惑は知らない ▼しかし同氏が民族の「共有された過去」を「書きかへ」ようとしている試みは、大きなお世話といわれそうだが、隣人として心配しないではいられない。歴史に学ぶことはあっても、歴史を否定したり正したりすることは、時代を引き継ぐ人間の所作として危ぶむからである ▼時の権力者が政治的策謀によって過去を断罪することはこれまでにもしばしば見られた。時のマスコミや世論がその“時流”にのって迎合的に反応することもこの世の常のようであった。韓国がその道をたどることのないよう祈りたい↑


【産経抄】

[1996年11月06日 東京朝刊]

 地中海の町アレクサンドリアの港の海底から、二千年前、プトレマイオス朝最後の女王クレオパトラがアントニーと恋を語らった王宮跡が見つかった。フランスの海洋考古学者が探し当てたという ▼シェークスピアの『アントニーとクレオパトラ』の第一幕第一場は、そのクレオパトラの王宮で幕をあけている。家臣たちがわが殿のちかごろの“色ぼけ”を嘆いているところへ、ローマの執政官アントニーとエジプトの女王クレオパトラが登場してくる ▼そんなとき、遠地で夫人が病死した知らせが届き、アントニーはこうつぶやく。「現在の快楽も、時を紡ぐ糸車の回転につれて、次第に色あせ、やがてはまったく反対のものになる…」(福田恆存訳)。人生の移ろいやすさをとらえる名せりふを吐くのだった ▼アントニーはクレオパトラと組んで独裁者たらんとするが、ローマの政敵との戦いに敗れ、クレオパトラが自殺したという虚報を信じて自ら剣で腹を突く。クレオパトラも毒蛇に胸をかませて後を追うが、その前にアントニーがいう言葉が哀切を極めた ▼「おれは死ぬのだ、エジプトの女王、もう直ぐに。ただ暫(しば)しの猶予を、死の神に頼む、きょうまで交わしてきたあまたたびの口づけの、悲しい最後の印を、そのお前の唇の上に残してゆきたいのだ」。彼女はいう。「…私の唇にそれだけの力があるのなら、こうして幾度でもそれが涸(か)れ萎(しぼ)むまで」 ▼二人の愛は、若者のそれではなく、爛(らん)熟と耽溺(たんでき)と退廃のうちに破局へ向かってゆく。いま話題の“失楽園”の官能のように。二千年の後に発見された王宮跡は、シェークスピアをそのまま、人生のはかなさを語っている↑


【産経抄】

[1998年06月22日 東京朝刊]

 仏ナントのボジョワール競技場を埋めた四万人の観客のうち三万人は日本人だった。その三万人が悲鳴とため息をつき、顔にペイント、Tシャツに日の丸という猛烈ぶりでフランス人を驚かせたという話に驚いた ▼ナントばかりではない。国内でも各地に大型スクリーンが持ち出され、クロアチア戦を応援した。東京・歌舞伎町のコマ劇場前広場には二万人のサポーターが集結して「ニッポン」コールを響かせた。NHKテレビはサッカーに明け暮れていた ▼一体これは何なのだろう。カタカナ語はいやでも、ほかにいいようがないので使うが、日本人としてのアイデンティティーを求めていたとしか考えようがない。ご当人たちは気づいているかどうか知らないが、「日本人とは何か」という問いを自分自身に突きつけていたのである ▼きのうの産経俳壇に「駐在所だけに日の丸みどりの日」(岡山・足立淑郎)という句があった。「日の丸の国旗を掲げて国の祭日を祝う習慣がこのごろ失われつつある」と倉橋羊村・選者は評していたが、戦後このかた、日本人は日の丸を掲げることにすらためらいを感じてきた ▼サッカーへの熱狂によって人びとは何かを共有したかったのである。では何を。亡くなった評論家・福田恆存氏流にいうと、それは「過去の共有」だったのではないか。「歴史とは共有された過去であり、歴史教育とは同じ過去の共有を課することである」(『日本への遺書』) ▼人びとは「日本人であること」を見失ってきた五十年をへて、「日本人であること」を取り戻しつつあった。勝てなかったのは残念だが、負けても悪くはなかった。おっとまだジャマイカ戦がある↑


【産経抄】

[2001年01月05日 東京朝刊]

 血液型はA、手をけがした男を追え。正月の大きな衝撃といえば、元日の朝刊で報じられた東京・世田谷の会社員一家四人の殺害事件だろう。こやつは何の目的で一家をみな殺しにしたのか ▼その残忍で執ような犯行手口からみると、ただの物盗(と)りとは思えない。犯人は単独犯か、複数犯か。現場には血のついたトレーナーが遺留されており、犯人は手に刃物による大きな傷を負っているという。自分で自分の手を切ったのか、これは重要な手掛かりだろう ▼“血塗られた手”といえば、シェークスピアの『マクベス』で武将マクベスはスコットランドの王ダンカンを殺害した。「何ということだ、この手は?ああ、大海の水を傾けても、この血をきれいに洗い流せはしまい?」(福田恆存訳) ▼いまごろ世田谷一家殺しの犯人も必死になって手を洗っているだろう。しかしマクベス夫妻が王を殺したことで悪魔となったように、その手の血はいくら洗っても残る。一家の恨みのこもった血は洗い落とすことはできない。汚れた犯跡は消えていないはずだ ▼捜査本部の見方によると、犯人は最初に長男(六つ)を首を絞めて殺した可能性がある。なぜまっさきにいちばん幼い坊やを手にかけたのか。家族たちはいずれも体の十数カ所を刃物で刺されていた。犯人は何のためにそれほどの激情と憎悪を示す必要があったのだろう ▼年末に警察庁がまとめた昨年の刑法犯は二百二十万件を超えて戦後最悪を記録、検挙数は過去最低の二四%に落ちた。しかも身近に凶悪犯罪が多発している。世田谷の惨劇は東京の不安の象徴である。捜査陣には正月返上の労苦だが、何としても犯人を逮捕してほしい。


【産経抄】

[2001年03月28日 東京朝刊]

 先週末のことだがこんな一部の新聞報道があった。東京都品川区の若月秀夫教育長が「小、中学校の卒業式などで国歌斉唱のさい起立しない来賓は招待しない」方針を表明したというのである ▼品川区の議会答弁で明らかにしたもので、それに対し野党議員らは「国旗・国歌法制定時も強制しないとされているのに、排除していいのか」と反発した。それを伝えた新聞も「入学式での対応があらためて問題になりそうだ」(朝日)などと報じている ▼そういってあてこする新聞もあるから念のために書くが、「起立しない来賓はお断り」を表明した教育長答弁は当然すぎるほど当然であり、全く正しい。こういうご時世だからあえて立派だといってもいいだろう。児童や生徒への礼節の教育からいっても当たり前である ▼国旗の掲揚や国歌の斉唱に起立もしない来賓をまねて、子供たちが外国でそのような態度をとったらどうなるか。国際的なマナーもルールもわきまえぬ人間として非難され、批判される。恥も礼儀も知らぬ日本人をつくることになるだろう ▼亡くなった評論家・福田恆存氏にこういう文章があった。「国旗はその国家の象徴なのである。さういふ国旗の観念が日本人に無いのは、国旗に己れの国家の象徴を見るといふ近代国家の観念が日本人に無いからに他ならない」(『日本への遺書』) ▼戦後の学校は、せっせと自分の国を忘れさせる教育をしてきた。その結果、心のよりどころ(=日本人であること)を失った日本人をつくってきた。国際社会で日本人が信頼されていないのは、戦争の反省が足りないからではない。母国への愛情と尊敬を持っていないからである。


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