記事−斜斷機


【斜断機】またまた朝日新聞批判

[1994年11月30日 東京朝刊]

 朝日新聞が良識を気取りながら救いようもない独善と傲慢に陥っている新聞だということはこれまでたびたび問題にされてきたが、先日ある友人の話を聞いて、巷の評判は正真正銘本当で「やっぱり朝日は朝日だ!」という感を深くした。彼の話を総合すると−−。

 経済部から原稿を依頼されたが、多少長めにという指示通り、二行ほど多く書いて入稿したところ、電話で一部改稿の要望があった。ただちに修正版を作り送り返す手筈を整えた。するとそこにご丁寧にも「参考までに」と称してカットすべき部分をファクスで指示してきた。再びその案を最大限取り入れ、修正第二版を作って送った。この間ほかの仕事を棒に振って数時間。ところが後に送られてきたゲラを見てアッと驚いた。わずか八百字の文のうち、変更しては困る部分が無断で五カ所削除され三カ所が変更されていた。しかも大切な冒頭の一文が丸々消え、全体の行数は規定よりさらに減少。すぐに抗議して復元を要求したが、行数は増やせないの一点張りで、冒頭の一文については涙を飲むほかなかった。

 筆者はこれを聞いて、単なる私怨の問題ではないと思った。もちろん、経済部のような部局は、文字表現のもつ厳格さと単なるコメントとのちがいに鈍感でも済んでしまうといった習慣的傾向があるのであろう。しかし、だからといって、そういう体質を許しておいていいのか。

 朝日のすべての部署にとはいわないが、少なくともこの新聞社の一部には、外部のプロに依頼した原稿を、内部の記者の原稿直し(それだって無断でやってよいはずがない)と同じ感覚で勝手にいじるファシストが紙面作りの鍵を握っていると銘記しておいた方がよい。これで民主主義や言論の自由を声高に掲げているとは、全くあきれる他はない。

 ついでにもうひとこと。「難読漢字」を勝手に決めて、括弧で読み仮名をつける大衆愚弄をやめよ。先日も西尾幹二氏の福田恆存追悼の文章に十一カ所も括弧がつけられ、何と「釘」や「笹」にまで及んでいた。亡き福田恆存に崇られるにちがいない。(涼)


【斜断機】吉本批判の常識

[1995年10月05日 東京朝刊]

 「くりかへしていふが、ぼくは文学の名において政治の罪悪を摘発しようとするものではない。ぼくは政治の限界を承知のうへでその意図をみとめる。現実が政治を必要としてゐるのである」「しかし善き政治であれ悪しき政治であれ、それが政治である以上、そこにはかならず失せたる一匹が残存する。文学者たるものはおのれ自身のうちにこの一匹の失意と疑惑と苦痛と迷ひとを体感してゐなければならない」

 福田恆存の初期の名論『一匹と九十九匹と』の一節だ(原文は正字)。聖書の迷える一匹の羊の話を例にとり、政治は九十九匹のためにあり、文学は群からはみ出した一匹のためにあるというのだ。卓見と言うほかない。

 福田恆存のこの文章を思い出したのは、本紙宗教欄でのオウムに関する吉本隆明のインタビューが雑駁な反撥を呼び起こしているからだ。吉本の発言は、ちゃんと読めば、福田の名論を少しも踏み外してはいない。もっとも、吉本の側に問題点がないわけではない。

 第一に、吉本の弟子の多くが「文学の名において政治の罪悪を摘発する」愚行を犯している。一匹が迷うのはそれを排除する九十九匹に責任がある、という“犯罪は社会が悪いんだぞ論”だ。吉本主義者の某や某々や某々々たちがそれだ。

 第二に、吉本思想の根底にある“大衆の原像”論の破綻である。他ならぬ大衆が吉本発言に反発したのだから、吉本思想は“大衆の原像”ならぬ“大衆の幻像”に依拠していたことになる。兵役で入営した時、大衆兵士の間で孤立感を味わったと語った丸山真男を嘲弄した吉本は、今同じ目に遭っている。

 以上二点を除けば、吉本発言に特に問題はないはずだし、この二点は吉本批判者も胸に手をあてて考えた方がいい。「週刊現代」(十月七日号)で吉本の「ボケは相当進んでいる」と書いた「左畜(さちく)」(「週刊新潮」で呉智英がつけた仇名)の佐高信は、自分が崇拝する久野収のボケぶりはどう考えるのか。(今)


【斜断機】文学者を見くびるなかれ!

[1996年08月08日 東京朝刊]

 「海燕」八月号が「小説世界の国家像」をテーマに、文学と国家論の特集を組んでいる。そこで「ラディカルな保守主義者」西部邁が、若手批評家富岡幸一郎を相手に熱弁をふるっている。

 西部が数年前、東大教授を辞職し、自腹を切ってオピニオン誌「発言者」を創刊、言論界ではたしつつある功績を否定するものではない。しかし「海燕」での西部の発言は、こと文学者や小説に関するかぎり、あまりにも単純素朴すぎるのではないか、と申し上げたい。

 小子に言わせれば、ここ数年、多くの論客が馬脚をあらわした中で、西部の社会的発言のみが群を抜いてリアルでありえた理由・根拠は、実は「言葉」と「自意識」(自己欺瞞)にこだわる西部的な文学精神にあった。西部的な文学精神とは言うまでもなく、「ラディカルな保守主義」のことだ。ところが実は、この西部の保守主義の源流は、文芸評論家で劇作家、そして戦後「保守反動」の論客、福田恆存の思考と行動にあった。つまり西部は社会科学者には珍しく「文学のわかる男」だったはずなのだ。

 無論、福田恆存の例を振り返るまでもなく、文学者の発言こそが日本の言論の歴史を支えてきた。経済学者や社会学者の発言が、いかに場当たり的で信用できない空理空論であったことか。元東大教授の西部はよく知っているはずだ。

 ところが西部は「海燕」でこんなことを言っている。文学者は単純なヒューマニスムや世界市民の信奉者である。文学者は自意識と心理分析に閉じこもっている。文学者は人格的に子供っぽい……と。

 そもそも文学者をこういう単純な、否定的イメージでしか了解できないところに論客・西部邁の限界がある、と言わざるをえない。たしかにそんな文学者もたくさんいるだろう。しかしそれは文学者の最低の鞍部にすぎない。

 文学者を敬え、とは言わない。ただ、文学者を見くびるなかれ!(嵐↑


【斜断機】丸谷才一氏の文章感覚

[1996年10月26日 東京朝刊]

 きたる十一月三日、日本国憲法が公布されてから満五十年になる。まだ“新憲法”と呼ばれることもあるが、現存する世界の憲法の中では十何番目かに古いと言われるこの憲法にも、ようやく本格的な見直しの機運が広がりつつある。

 もちろん、護憲論も根強く残ってはいるけれども、文章の面からこの憲法を擁護する人は滅多にいない。その数少ない一人が作家の丸谷才一氏。

 今も結構売れている丸谷氏の『文章読本』は、「達意」という点に関して明治憲法と現憲法を引き合いにしながら、現憲法は決して名文ではないが、「筆者のいはんとするところを表現してずいぶん明確であり、曖昧さが乏しい。誤解の余地がすくない」と褒(ほ)め、明治憲法に較べれば「遥かに優れてゐる」という。

 一方、故福田恆存氏は「現行憲法に権威が無い原因の一つは、その悪文にあります。悪文といふよりは死文といふべく……」と現憲法の文章を頭からこきおろし、それに比して明治憲法の起草者の「情熱には頭が下ります」と讃える。

 世代は少し違うものの、文章については殊(こと)の外(ほか)うるさい二人の著名な文学者の間に生じた正反対の評価−−どちらが説得力ある見方なのか。たとえば……

 清水義範氏のパスティーシュ小説の傑作『騙(だま)し絵日本国憲法』は、現憲法の前文の一節「日本国民は……政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し……」を俎上(そじょう)に載せ、文意の曖昧さを辛辣に衝いている。

 「戦争の惨禍を起こさないと決意し」なら「論理構造はちゃんとしている」が、原文では「戦争の惨禍」が主語になっているため、「戦争の惨禍」が「自然に起きてしまう」ことの「ないようにすること」を日本国民が「決意する」という趣旨になり、それでは「頭がごちゃごちゃ」になってしまう、と。

 これはほんの一例。現憲法の文章上の欠陥は、明らかな誤訳を含めてほかにもある。それでも丸谷氏は「曖昧さが乏しい」と弁護し続けるのか。それとも、明治憲法に何か怨念でもあるのか。(諦)


【斜断機】「諸君!」よ、お前もか?

[1996年12月15日 東京朝刊]

 戦後思想が批判・解体され、同時に論壇が崩壊したのは七〇年前後だが、それ以降新しい保守論壇を形成し、常に言論をリードしてきた雑誌「諸君!」一月号に、「日本『言論人』地図」なるものが掲載されている。

 三人の筆者たちは、いずれもまだ若い駆け出しの表現者たちだ。大いに期待したいところだが、小子はこの企画を読んで愕然とした。保守思想もここまで低俗化してしまったのか−−。これでは悪しき戦後民主主義そのものではないか−−と思わずうなってしまった。

 というのは、ご承知の方も多いと思うが、実はこの手の幼稚なチャート式「論壇地図」なるものは、戦後民主主義や戦後思想が頽廃し、知的荒廃の極みに達した時期に、つまり七〇年代、八〇年代に左翼系メディアに頻繁に登場した企画とまったく同じだからである。小子をして言わしむれば、こういうものが登場するということは、保守思想も、今やかつての戦後左翼思想なみの知的荒廃に直面しているということを意味している。

 戦後左翼思想華やかなりし頃、保守思想を語るものたちは、論壇や文壇から孤立を余儀なくされ、社会の表舞台からも排除された孤独な学者・思想家・文学者たちだけだった。小林秀雄、福田恆存、田中美知太郎、三島由紀夫らの保守精神を支えていたものは、一流の学問であり、一流の芸術であった。彼らは一流の学問や芸術の名において、戦後民主主義と闘ってきたのだ。彼らの保守思想は、集団主義的な学級会民主主義の発想とは無縁であった。だからこそ保守思想は、今日まで生き延びることができたのだ。

 むろん、いかがわしい戦後民主主義にかわって、健全な保守思想が若い世代に定着し、流布していくことは歓迎すべきことだ。しかし、かつて戦後左翼思想がそうであったように、学問的、芸術的研鑽ぬきの大衆啓蒙主義に堕落することは保守思想の自殺である。保守思想をオモチャにするなと申し上げたい。

 (嵐)


【斜断機】“嫉妬”と言論

[1997年04月26日 東京朝刊]

 「正論」三月号で渡部昇一さんが秦郁彦さんに噛みついていた(「専門家の仕事を見かねる素人の立場について」)。自分の作品『ドイツ参謀本部』を盗作まがいで「出世作」と呼ばれたことに対する徹底的な反駁であり、秦氏の現代史家としての資格までをも問うた相当痛烈な文章である。これに対して秦氏からの反論はまだなされていないようである。

 興味深かったのは、この一文を草するにあたって渡部氏が「やりたくないことを、最もやりたくない時期にやることになったなァ」と思ったことである。いわゆる「従軍」慰安婦問題で世の中が騒がしいこの時期に、同じ陣営と見られている秦氏をわざわざ槍玉にあげることもあるまいに、というわけだ。しかし秦氏の「いかがわしさ」を渡部氏は許すことができなかった。

 ところがその昔、右旋回して同じ陣営に入った清水幾太郎の「いかがわしさ」を許さなかった福田恆存を、渡部氏が最近出した谷沢永一さんとの共著『人生は論語に窮まる』(PHP研究所)の中で「間違っています」と言う。「過ちては改むるに憚ること勿れ」という論語の教えを実践した清水の態度は立派なものであり、それを福田は評価すべきだった、というのである。

 その判断はまあ、どうでもいい。問題は渡部氏が福田の清水批判(「近代日本知識人の典型清水幾太郎を論ず」)の背景に「嫉妬」をあげ、清水は「立場を改めてからも売れる本を書き、背が高くてスマートで、しかも絶対的に語学ができ」たのに、福田は「英文科出身だったけれども、実はそれほど英語が読めなかった」とまで言っていることである。

 何を根拠にこういった物言いがなされるのか判然としないが、福田ファンならずとも唖然とするセリフだろう。そもそも思想家・言論人として清水は福田の比ではない。渡部氏の福田への無理解はいたしかたないとしても、誹謗・中傷はいただけない。 (倉)


【斜断機】保・保対決の時代

[1997年11月22日 東京朝刊]

 高度経済成長以後、左翼陣営は後退に後退を続けてきたが、それに歩調を合わせるかのように、流行に敏感な若者たち(老人たち?)が一斉に保守化し、《自称保守派》として保守論壇で活躍するようになった。まことに結構なことだ。しかしこれら《自称保守派》のなかで、どれだけが真に《保守》の栄光と屈辱を自覚しているか。最近の《自称保守派》とは、単にマスコミに顔を売る手段として、手っ取り早く《保守》の仮面をかぶってみたというだけではないのか。

 今、もし、左翼や進歩派がマスコミの主役であったら……。むろん《自称保守派》は雲散霧消し、論壇には左翼青年と進歩派青年があふれかえっていたであろう。所詮、総保守化時代の《自称保守派》青年なんて、そんなもんだろう。

 かつて論壇や文壇では《保守》とは侮蔑と嫌悪の対象であり、《自称保守派》として生きていくことは至難の業であった。当然、公私にわたって屈辱的な待遇を覚悟しなければならなかった。だから《自称保守派》として生きのびてきた思想家や文学者はきわめて少ない。田中美知太郎や小林秀雄、三島由紀夫、福田恆存などがどのように戦前、戦後を生きてきたかを見れば明らかであろう。

 さて最近、保守論壇で、《自称保守派》同士の内ゲバが頻繁に起こるようになった。おおいに歓迎すべき現象である。

 渡部昇一と秦郁彦。西尾幹二・小林よしのりと福田和也・西部邁。小堀桂一郎と西義之。老若入り乱れて、かなり過激なサバイバルゲームを展開している。

 むろん、これらの論争の背景に藤岡信勝や西尾幹二らによる「従軍慰安婦論争」と「歴史教育論争」の、華々しい成功があることはいうまでもない。つまりこれには保守派の主導権争いと、教科書論争に乗り遅れた旧保守派のヒガミ、ネタミという人間的要素とが絡み合っている。

 誰が生き残るか。誰が真の保守か。小生としては、今は、ただ、論争の火を消すな、とだけいっておこう。(山↑


【斜断機】「ケータイとデフレ」の心理学

[2001年04月08日 東京朝刊]

 相変わらずの不況、出口は見えない。無理もない。あなたは今、どうしても欲しいもの、買いたいものがどれだけありますか。肝心の消費者の購買意欲が、こう沈滞していては、いくら金利を下げ、公共投資したところで、結局お金はまわらないのだ。

 あの『なんとなく、クリスタル』(田中康夫著、一九八〇年)以来、バブル期にかけて遊ぶ大学生ら若者が、大いに消費を盛り上げていた。クルマ、ディスコ、ブランドの服、海外旅行…と。九〇年代、バブル崩壊後もこの公式は揺るがなかった。J−ポップ、カラオケ、プリクラ、ナイキ、シャネルと小粒化はしても、女子高生はじめ、若い世代は依然、消費を牽引(けんいん)していた。

 しかし…、ここにきて新聞、雑誌には、CDもカラオケも落ちこみ、海外旅行など、今や熟年層のものという記事が、しばしば目につく。

 若者たちは、今やマツモトキヨシ、ユニクロ、果ては百円ショップのお得意さんとなり、むしろデフレ・スパイラルの牽引者ではないか。

 こうした記事の定番が「原因は携帯電話」という指摘だ。彼らは月一万円を超える額を、ケータイの通話料で吸いあげられ、購買余力を失っているというのだ。

 友人と絶えずつながっていられるなら、後は何もいらない。彼らはそう考えている。

 しかし思えば、音楽も旅行も、若者の真の目的は、友達や異性と「つながること」ではなかったか。彼らは「何を消費するか」よりも「誰と消費するか」が大事だったのだ。ゆえに今、直に彼らを「つなげて」くれるツールが登場した今、全ての迂回路(うかいろ)はいらなくなった。

 四十年前、福田恆存は「人は生産を通じてでなければ附き合へない。消費は人を孤獨に陥れる」と喝破した。我々はやっと「消費で附き合う」愚に気づいたのだろうか。

 それとも今も通話サービスを「消費」することで「附き合い」の幻想に浸っているだけなのだろうか。

 評論家 浅羽通明


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