演劇關係


要田禎子と土井美加、仲良し従姉妹演じる 4日から東京・千石の三百人劇場

[1993年06月01日 東京夕刊]

 劇団昴が四日から二十四日まで、東京・千石の三百人劇場で上演するシェークスピアの喜劇「お気に召すまま」(福田恆存訳)に、劇団期待の女優、要田禎子(ようだ・さちこ)と土井美加(どい・みか)の二人が仲良しの従姉妹同士で出演する。

 宮廷での束縛から逃れて、自由と愛の象徴であるアーデンの森へ旅立っていく公爵の娘ロザリンド(要田)と従妹シーリア(土井)が“真実の愛”を知るまでに体験する新鮮で活気あふれる騒動を描く物語で、今回はアメリカの演劇界で活躍中のリチャード・E・T・ホワイトとクリスティン・サンプション夫妻が共同演出する。二人にとっては、両氏のオーディションによって選ばれて挑む舞台だ。

 劇中、男装する場面がある要田は「演出家からは、男の子を演じている自分を楽しむように、といわれているんです。スカートからズボンになった時、女の仕草がでないよう、どう自然に見せるかをいま、研究しています」と初体験に挑戦中。

 「ハムレット」や「夏の夜の夢」など、シェークスピア作品は数本体験済みの土井は「イギリス人がアメリカに新天地を求めたように、抑圧されたお城から森へ行って、より二人の世界が広がっていくさまを、心がどんどんのびのび、解放されていく様子や、それにつれて強まる女の友情といった形で出せればいいですね」と、いわばフロンティア精神を反映するような演出にこたえたいと意欲的。

 劇団では、土井のほうが六年先輩になるが、共演は初めて。「指摘が具体的で、けいこ場などでの役者同士から生まれる感情を大事にしてくれる演出法には感心しています」と口をそろえる二人が、この公演で学びとる材料は多そうだ。

 ロザリンドが恋するオーランドー役で宮本充のほか西本裕行、稲垣昭三、朝倉佐知ら。料金4000円。問い合わせTEL03・3644・5451


【産経抄】ハムレット

[1993年10月08日 東京朝刊]

 日本語がおかしいという話をよく聞かされる。歌でも芝居でも、口の中でせりふがくぐもったり、巻き舌で国籍不明の発音になったり…。それでもプロか、といいたくなることがある ▼そんなご時勢だから劇団四季の『ハムレット』(6日所見。25日まで、東京芸術劇場)を見てうれしくなった。真正面からシェークスピアと四つに組んだ公演で、黒一色の舞台装置も、山口祐一郎ハムレットもいいが、何より日本語のせりふがきっちり客席にとどいていた ▼一つには、シェークスピアの華麗な“ことば遊び”の世界をみごとな日本語に移しかえた福田恆存訳の余徳かもしれない。「ハムレット」を凡作とか失敗作とかいう世評(T・S・エリオットなど)があるが、どうしてどうして ▼トントン畳みかけるせりふは、墓掘りの道化役のやりとり一つとっても目が詰んでいて、比喩の奇抜さやまぜっ返しの楽しさに満ちている。たとえば王妃「お前は、この私を忘れてしまったらしい」。ハムレット「とんでもない、忘れるどころか、お妃にして、夫の弟の妻。しかも、あるまじきことに、わが母上」 ▼人生の機微や皮肉はむしろ脇役のせりふの中に多い。たとえば宰相が娘にいう男の戒め。「だがな、オフィーリア、このぱっと燃えあがった誓いの 、はでに光るほどは熱がない。…誓いなど真に受けるではないぞ。男の誓いというやつはな、女子に不義をすすめる取持役」 ▼うっかり拍手でもしたくなるほどである。そんなシェークスピアの鋭い目を、福田恆存訳は鮮やかな日本語のいいまわしで表現し、劇団四季のハムレットたちはそれを美しいひびきで伝えたのだった。


劇団昴の藤木孝「リチャード二世」に挑戦 せりふ劇の復権目指して

[1994年09月19日 東京夕刊]

 日本ではほとんど上演されなかったシェークスピア作品「リチャード二世」が、二十二日から十月十六日まで、東京・千石の三百人劇場で上演される。主役の藤木孝は「冒険ですが、とてもやりたかった作品」と張り切っている。

 藤木は平成元年、所属する劇団昴(すばる)の公演「リチャード三世」で主役をつとめた。「リチャード三世は、俳優になったときから夢だった役。そのとき、いろいろとシェークスピアを勉強して、『リチャード二世』のことも知りました」という。

 日本では、この作品はほとんど上演されていない。「イギリスではよく演じられていますが、若い俳優ではなかなかやれない大変な役」(藤木)。“冷めたナルシスト”の王・リチャード二世は、ひとりで全体のせりふの四〇%を占め、俳優にとってはせりふ術など力量を問われる作品だからだ。

 若くして王位についた、リチャード二世は、罪なき者たちを追放し、悪政の報いで王位を奪われ幽閉、やがて暗殺される。歴史に名高い、英仏が戦った百年戦争の時代、十四世紀末のイギリスが舞台。

 「王であれ、人間。欠点のない人間はいないと思います。リチャード二世についても、人間として共感できる部分もあるので、そのあたりを舞台で出せれば…。演出の村田(元史)さんとは、せりふ劇の復権を目指そうと話しました」と、藤木は語っている。

 共演は、王妃に姉崎公美ほか、石波義人、西本裕行、簗正明、北村昌子ら。福田恆存訳の上演は初めて。問い合わせはTEL03・3944・5451。

リチャード二世にふんする藤木孝と、王妃役の姉崎公美


【94演劇回顧】日本作品/外国作品

[1994年12月26日 東京夕刊]

 不況などどこ吹く風といわんばかりに、演劇界は、一見、華やかである。全国で年間に上演される芝居の正確な数はだれも知らないといわれるほどだ。が、外見ほど実り豊かというわけではない。各分野から収穫を拾ってみたい。

 (演劇評論家・岩波剛)

 【日本作品】

 不振といわれる商業演劇だが、たとえば芸術座の「放浪記」、新橋演舞場の「七変化電信お玉」、博品館劇場の「MITSUKO」、帝国劇場の「唐人お吉」などは見ごたえもあり客もよんだ。森光子、三田佳子、吉行和子、佐久間良子といった座長格の女優が人気だけでなく演技者として成熟したからだろう。

 「成熟」といえば、今年は築地小劇場創立から七十年。以来、外国劇か日本の劇か、大江健三郎のいう「あいまいな」どっちつかずの状態が続いてきた。新劇という呼び名も古くよく響くようだが、あえて「座・新劇」と銘打った俳優座系五劇団の合同公演、木下順二作「風浪」、秋元松代作「村岡伊平治伝」、宮本研作「美しきものの伝説」の三本が上演された。成熟か衰弱か、を問われるセリフ劇の競演となったが、いずれも戦後演劇の富であることを再確認させる力があった。創立当時はヤングであった青年座も四十周年を迎えたが、新鋭作家(坂手洋二、マキノノゾミ、砂本量、鐘下辰男)の四作品を二カ月にわたり上演、気をはいている。

 新作戯曲では福田善之「私の下町」、井上ひさし「父と暮せば」、清水邦夫「わが夢にみた青春の友」、水上勉「 江風土記」、別役実「森から来たカーニバル」、吉永仁郎「滝沢家の内乱」に注目した。また、地味ではあっても明確な劇団の姿勢を示した公演として、東京演劇アンサンブルの「真実の学校」、文化座の「夢の碑」、仲間の「モモと時間どろぼう」、青年劇場の「村井家の人々」、それに木山事務所の「百三十二番地の貸家」「落葉日記」をあげたい。

 一方、“不況のときは家族ドラマがはやる”のかどうか、岩松了の「月光のつつしみ」、高泉淳子の「ラ・ヴィータ」など社会の最小単位としての家族や夫婦に焦点をあわせた静かな劇が新進作家に多かったのも特徴的な現象であった。

 ミュージカル系では宝塚歌劇団創立八十周年の連続公演が華麗だった。音楽座の「泣かないで」が弱者のなかの“聖”なるもの、献身の美しさを描き出し、ふるさときゃらばんの「裸になったサラリーマン」がリストラの中で再起する集団の決意をうたいあげ、ともにミュージカルでなくては発現しない力を感じさせた。

 【外国作品】

 以上は日本人の書いた戯曲、台本による公演である。とかくバランスが外国作品に傾きがちな現代劇の流れを筆者は要注意としているが、翻訳劇はいぜん隆盛である。

 まず、二人の著名作家の新作上演。アーサー・ミラーの「ザ・ラスト・ヤンキー」(劇団昴)はアメリカの病める部分を描いてさすがに鋭さを失っていない。アーノルド・ウエスカーの「ワイルド・スプリングス」(文学座)は人生の逆境を生の肯定へ転化させる作劇がみずみずしかった。そのほか劇団円の「叔母との旅」、博品館劇場の「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」、アートスフィアの「インスペクター・コールズ」、俳優座劇場プロデュースの「二十日鼠と人間」の成果を評価したい。

 国際化の流れを感じさせたのは、パルコ劇場の「オレアナ」、サンシャイン劇場の「ファルセット」、銀座セゾン劇場の「エンジェルス・イン・アメリカ」はじめ、セクハラ、ホモ、エイズを通じて現代の人間関係を探る新作の翻訳上演が多かったことだろう。

 つまり、日本の演劇界については明らかに輸入超過だが、今年は海外公演がめだった。なかでも、劇団四季が「ジーザス・クライスト・スーパースター」を韓国で上演、初の本格ミュージカルの進出と騒がれ、高い評価を得た。劇団銅鑼は「センポ・スギハァラ」のリトアニア公演を実現、地元の歴史にかかわるヒューマンな内容が温く迎えられ、ともに国際交流の実をあげたといっていい。

 今年は、新劇の創生期から活躍した山本安英、東野英治郎、劇作・翻訳で大きな実績のある福田恆存、そしてわが国の新劇のありかたに多大な影響を与えた千田是也が死去、一つの時代が終わろうとしているのかと寂しい思いもした。しかし最長老、九十二歳の三津田健が新作「鼻」に、滝沢修が近代古典の「修禅寺物語」に挑戦し、杉村春子が三作に出演しているのは頼もしい。


現代演劇協会が「福田恆存回顧」 3作品を連続上演中

[1996年11月06日 東京夕刊]

 現代演劇協会の創立者であり、作家、評論家としても活躍した故福田恆存さんをしのぶ「福田恆存回顧・三作品連続上演」が、同協会付属の劇団昴公演として行われている。

 平成六年に亡くなった福田さんは、東大卒後の昭和十五年ころから小林秀雄や岸田國士らと文学活動を始めた後、文学座を経て、劇作家として演出家として演劇に深くかかわった。今回は、その福田さんの数ある戯曲の中から「一貫して日本における演劇の可能性を追求し続けてきた道程を振り返り、単なる追悼になるのでなく、時代が変わっても時代性に追われない普遍性を考慮して、今に生きる舞台(戯曲、翻訳作品)を」(劇団昴広報)と選ばれた三作品が上演されることになった。

 第一作の「堅塁奪取」はすでに十月末に上演が終了しているが、第二作の福田訳によるシェークスピア作品「テンペスト」は、福田さんの子息で、現在、同協会理事長の福田逸演出によって十二日まで上演されている。

 また、昭和三十一年、文学座で杉村春子、長岡輝子、南美江、芥川比呂志らそうそうたるキャストが出演して初演されて以来、四十年ぶりの再演となる「明暗(福田作)」が第三作として、十五日から二十一日まで、村田元史演出、内田稔、稲垣昭三、谷口香、一柳みる、小山武宏らの出演で上演される。

 「明暗」は、十五年ぶりに目が見えることになった男が住む家庭を舞台に、男が見えなかったときに明かされなかった“真実”が次々にあらわになることによって、親子、姉妹、夫婦間の愛憎模様が浮き彫りにされる。“見えるとは?”“真実とは?”を推理劇仕立てにした人間喜劇だ。

 このドラマで、十五年ぶりに“見える”ようになる男=康夫(北村総一朗)の妻=瑞枝にふんする昴の中堅女優、一柳=写真右=は「芝居作りがまったく日本的でなくて、登場する人物たちの倫理観のかたよりが際立っていたり、口には出さないけれど家族全員がドロドロした関係にあるというドラマ。瑞枝というわたしが演じる役も、盲目の夫と結婚する前に夫の友人の子供を身ごもっているのに平然としているなど、とにかく今までの日本の常識論では芝居が成立しないのではないか、と思えるような、女優として、今とてもおもしろい体験をしているところです」と、けいこ場での感想を話している。

 会場はいずれも東京・千石の三百人劇場。問い合わせはTEL03・3944・5451。

【写真説明】

故福田恆存さん


思わぬ大役「ただ今奮闘」 劇団昴の川勝あか梨 「十二夜」のヴイオラ役に

[1997年06月03日 東京夕刊]

 劇団昴の新進女優・川勝あか梨=写真=が、六日から東京・本駒込の三百人劇場で上演されるシェークスピアの喜劇「十二夜」(福田恆存訳、菊池准演出)にヴイオラ役で出演する。

 平成三年初舞台の川勝にとっては、思わぬ抜てきでつかんだ大役だ。「十二夜」はシェークスピア作品の中でも、たびたび上演されるわが国でもなじみの舞台。航海中に難破して離れ離れになった双子の兄妹が、イタリアにたどりつく。妹のヴイオラは男姿に身を変えて公爵家に仕えるが、公爵に恋をしてしまう。一方、公爵は別な姫に夢中で、その恋のとりなし役でヴイオラは姫のもとに使者にたたされるが、なんと姫はヴイオラに一目ぼれ、ヴイオラは恋の板挟み。そこへ男姿のヴイオラにうり二つの兄セバスチャン(平田広明)が現れたから、恋の騒動はあらぬ方向へ…。

 “十二夜”とは、クリスマスから数えて十二日目の夜をさす西欧伝統の祝酒日。現実と虚構が混とんとして浮かれ騒ぐ人間模様が描かれており、仮装が引き起こす恋の思い違いが見どころとなる。

 子供のころから芝居好きで、シェークスピア劇をやりたくて昴を選んだという川勝にとっては、まさに願ってもない役だ。しかも、初舞台が「夏の夜の夢」、五年には「お気に召すまま」にも出演しており、シェークスピアは三度目。

 が、「こんなに早く、あこがれの役を演じられるなんて、ただ今、苦戦中です」と、川勝は神妙だ。ヴイオラ役は、川勝にとっては現実に抱いている理想の女性像に近いということで、「もともと強さをもっていたけど、身分や立場上その意思を出さなかった女性が、男のかっこをするようになって、素の部分を出しやすくなった、といった感じで演じていきたい」と、その理想像の自己流表現法を工夫している。

 「度胸と大胆な発想が魅力」(昴制作部)と、大役をまかされた川勝。「男姿のところは、女性から見てあこがれの男性像に見えるように、自分らしいヴイオラを表現して、この役は川勝しかないと思われるような女優になっていきたいですね」。すいせん理由に恥じない気の強さと積極姿勢を見せている。共演は平田のほか金尾哲夫、要田禎子、西本裕行ら。二十五日まで。問い合わせはTEL03・3944・5451↑


【おもしろ芝居Check&チェック】6月の舞台から 若尾の娘ぶり光る「一葉」

[1997年06月28日 東京夕刊]

 日本初演から十周年。東宝製作の翻訳ミュージカル「レ・ミゼラブル」が、五カ月にわたる記念公演をスタートさせた。劇団四季を退団した山口祐一郎がジャン・バルジャン役に加わったほか、初参加、復帰組による各役のバリエーションも楽しめ、人気は上々だ。また、大小舞台とも、ジャンルごとに好対照の作品が並び、比較の“妙”を味わえたのも“六月の舞台”の特徴だった。

 (石井啓夫)

 【ミュージカル】

 帝国劇場で上演中の「レ・ミゼラブル」(十月三十一日まで)は一九八〇年にフランスで生まれ、八五年のロンドン、八七年のブロードウェーに続き、日本版として初演されたのが昭和六十二年六月。二十四日には上演回数千回を記録した。

 舞台が胸をうつのは、一個のパンを盗んだことで十九年間も投獄され、仮釈放後も前科者として苛酷な運命をたどるジャン・バルジャンの悲劇だけでなく、彼を取り巻く人間群像すべてに色濃いドラマが付着していること。

 それぞれに理屈があり、時代にほんろうされた悲喜劇が心を揺さぶる音楽とともに沸き立ってくる。

 キャストでは、バルジャンの鹿賀丈史が初演メンバーの貫録を示して安定、初役の山口祐一郎は申し分ない押し出し。ファルセット(裏声)が聴かせるし、なにより新鮮な魅力と輝きがある。ジャベールは村井国夫の執念に魂を奪われそうだが、川崎麻世のリンとした風情もいい。コゼットは早見優、純名里沙とも、適役のスタート。が、早見の声質に長丁場での不安が残る。エポニーヌの島田歌穂は本役で、これまでで最高の出来、初挑戦の本田美奈子は絶命シーンで泣かせる。「オン・マイ・オウン」は硬(本田)・軟(島田)の歌唱で好み次第。ファンテーヌは岩崎宏美と鈴木ほのか。初役・鈴木の「夢やぶれて」から死に至るまでの歌と芝居に、コゼット時代とは見違える味が加わった。ガブローシュの宇野まり絵、リトル・コゼットの櫻岡陽菜子の子役陣の達者さには舌を巻いた。(所見日評)

 大作ではないが、銀座博品館劇場の「青空」(乗越たかお作、中村龍史演出・振付)が、客席を巻き込み楽しさを倍加させた好舞台。昭和初期に来日、ジャズ・ソングの軽やかさを日本中に広めた日系三世の天才少女、川畑文子の物語だ。文子役の土居裕子が音楽座以来、久々に歌いまくった。「青空」「アラビアの唄」など、魅惑的な衣装とともに美声を披露、今後のミュージカル出演への期待が高まる。文子の母親役の諏訪マリーが声量、存在感ともに一級。

 【商業演劇】

 明治座の「樋口一葉」(大藪郁子脚本、石井ふく子演出)は、貧困に悩みながら小説を書き続ける一葉(若尾文子)のけなげな姿を浮き彫りにする。

 榎木孝明ふんする半井桃水との恋をハナショウブに秘める純愛に仕立て、若尾が登場するだけで美しい娘姿を見せるファンタジー。いつもの石井演出のリアリズムの影は薄い。宝生あやこが元士族出身で浪費癖ある世間知らずな一葉の母親役をかっちりと演じ、坂口良子の一葉の妹も目立たず、しかしきれいな作りで、若尾の娘ぶりを引き立てた。

 テレビドラマの人気作「御宿かわせみ」(平岩弓枝原作・脚本、小野田正演出、二十九日まで=新橋演舞場)は、テレビフレームをそのまま拡大したようで逆に舞台上では、ドラマが縮小してしまった。名取裕子のヒロイン“るい”が、安井昌二、長谷川稀世、光本幸子らの好助演を受けるも、焦点が定まらず目立たなかった。テレビでは、人情の機微が“るい”を中心に伝わるのに、登場するだけで華がある名取をいかしきれず、名取にとっては役不足ともいえる気の毒な舞台。

 五月から二カ月公演中の芸術座「渡る世間は鬼ばかりIII」(橋田壽賀子原作・脚本、石井ふく子演出、三十日まで)は、中劇場の利点をいかしテレビ同様の茶の間話に絞り込み、かえってテレビ仕様を生モノとして拡大させ成功した。藤岡琢也、山岡久乃、赤木春恵、泉ピン子らの家庭生活をのぞき見している臨場感を与えたのがミソ。

 【新劇系】

 ニュー・コメディー・スリラーと銘打った「ドアをあけると」(A・エイクボーン作、出戸一幸翻訳、栗山民也演出)は、ウェルメイドなドタバタ喜劇。栗山の演出にしては笑いも展開も平凡だがホテルのドアを越えて行ったり来りすることで過去と現在(舞台上では未来)とを体験する三人の女性たち(川上麻衣子、剣幸、神野三鈴)が職業や立場を超え最終的に協力してハッピーエンドを迎える女の友情と人間愛ドラマで後味がいい。立川三貴、たかお鷹、藤木孝が持ち味競って笑わせる。

 劇団昴によるシェークスピアの「十二夜」(福田恆存訳、菊池准演出、三百人劇場)が、小気味よい出来栄え。セバスチャンの平田広明とヴァイオラの川勝あか梨の双子の兄妹がうり二つの俳優で、取り違え物語に興が乗った。新人の川勝に鮮度、しなやかさが加われば、なおいい。

 話題の関西出身劇作家・松田正隆作の木山事務所「海と日傘」(末木利文演出、俳優座劇場)。純文学の短編を読まされたような思索的な気分に誘われる静かな小芝居。セリフの音にひそませた意味合い、役者の所作のらち外からわき出る情感…。作、演出の共同作業にしろ、この作品は演劇的感性より映像処理のほうが鋭く似合うのではないか。本田次布、水野ゆふ好演だが、まだ感性が硬い。

【写真説明】

(上)「レ・ミゼラブル」で鹿賀丈史、滝田栄に次ぎ、3人目のジャン・バルジャン役となった山口祐一郎(左)=帝国劇場(下)「樋口一葉」で共演する若尾文子(左)と榎木孝明=明治座

「御宿かわせみ」でヒロイン“るい”を演じる名取裕子(左)。右は中村信二郎=新橋演舞場

劇団昴「十二夜」で双子の兄妹役を演じた平田広明(左)と川勝あか梨=三百人劇場


【ザ・パーティー】25日 「台湾映画祭」レセプション

[1997年12月26日 東京夕刊]

 「台湾には劣悪な環境の中でも密林をなすマングローブの一種があります。台湾の映画人もそれと同じです。乏しい資金、設備、人材という環境の中で力を合わせ、文化の土壌を耕してきました。今回の映画祭が世界に台湾文化を発信する絶好の機会ととらえ、私たち行政側も支援を惜しまないつもりです」

 古典から新作まで一挙に五十作品を上映する「台湾映画祭」がいよいよきょう二十六日から、東京・千石の三百人劇場で始まる。これに先立って二十五日夜、紀尾井町のホテルニューオータニでレセプションが開かれた。冒頭、あいさつに立った陳水扁台北市長は、二分の予定を大幅に超えて、台湾映画のPRと映画祭にかける意気込みを語った。

 参加者はおよそ二百人。うち四割が台湾関係者。台湾映画が一挙に五十作品も上映されるのは世界でも初めての試みだけあって、同国メディアの関心も非常に高く、駆けつけたテレビ、新聞、雑誌の記者たちは王童監督、俳優の王渝文さん、張震さんら自国のスターたちの一挙手一投足を熱心に追っていた。

 また、台湾映画に関心をもつ女優の南果歩さんや、テレビのコメンテーターとしておなじみの金美齢さん、東京外語大の中嶋嶺雄学長らの顔も見え、グラス片手に映画談議にふけっていた。

 「侯孝賢監督の『恋恋風塵』など、好きな台湾映画は多いです。今回の映画祭は、王童監督の作品など、名声だけ聞こえて、見る機会のない作品が多数上映されるので本当に楽しみです。もし機会があれば、台湾の監督、俳優さんとも仕事をしてみたいと思います」と南さん。

 人気の若手俳優、張震さんは現在、兵役中だが、特別許可を得て来日が実現。「代表者のひとりとして参加できたことを光栄に思います。映画祭によってこれまで以上に台湾映画がより深く印象づけられれば」と語った。

 中嶋学長は「台湾映画の特徴は難しい状況の中で、台湾および台湾人のアイデンティティーを模索しているところでしょう。そして芸術性とリアリズムを併せ持っている。もし福田恆存さん(劇作家)が生きていたら、この映画祭が福田さんゆかりの三百人劇場で開催されることを喜んだでしょうね」と、思わぬ人名を口にした。時代の安直な流れに抵抗した福田さん、いかがですか?

 (桑原聡)

【写真説明】

にこやかに乾杯する陳水扁台北市長(前列左)。後列左は映画評論家の佐藤忠男さん


日英“ハムレット役者”対談 市川染五郎Vsケネス・ブラナー

[1998年02月21日 東京夕刊]

 シェークスピアの『ハムレット』(東京・日比谷みゆき座で公開中)を初めてノーカットで映画化、主演、監督を務めたケネス・ブラナーがこのほど来日。史上最年少の十四歳でハムレットを演じ、この夏、再び『ハムレット』に挑む歌舞伎俳優、市川染五郎と対談した。世界的シェークスピア俳優であるケネス・ブラナーに、染五郎は次々と質問。ハムレットをめぐる俳優論に盛り上がった−。

 染五郎 十四歳から、西洋版、歌舞伎版などハムレットを演じてきましたが、何度演じても限りない役という気がします。

 ブラナー 映画を作るまでに三回演じましたが、役者は年をとることでリッチになる。何度も演じることが重要です。シェークスピア作品の中でも、ハムレットほど俳優の解釈度合いによって異なるものはない。イギリスではハムレットのことを“レントゲンの役”といいます。演じる俳優のすべてを見せてしまうので。

 染五郎 シェークスピアの言葉、せりふについてはどう考えていらっしゃいますか。

 ブラナー ノーカット版にしたのは、せりふにある音楽性を伝えたかったから。どういう音楽かはなぞですが、俳優はそのなぞを解明し、お客さんに伝える器です。完全に伝えることで、お客さんは作品を理解できるのです。

 染五郎 それは、シェークスピアの作品だけでしょうか。

 ブラナー シェークスピアは人間を読む深さにおいて複雑でユニーク。それをトータルに描いています。そして、劇作家というより、詩人なんです。シェークスピアのせりふは耳で聞くのではない、経験するものです。

 染五郎 ハムレットは精神分裂症だという解釈がよく言われるのですが、ぼくはそういう矛盾があるからこそ人間ではないかと思って演じているのですが。

 ブラナー 英国でもハムレットは狂人になったと解釈されますが、私は同意しません。ハムレットはプレッシャーのある環境、立場にいます。ドラマですから極端にはなりますが、そのプレッシャーの中で反応しているにすぎない。そこに人間性があるからわれわれ俳優は共感するのです。

 染五郎 なるほど。

 ブラナー ハムレットにはとげのあるユーモアがある。翻訳ではどうなっているのですか。

 染五郎 やはり、横文字を翻訳して演じる限度を感じます。“ドラマ”には限りがないと思いますが、難しいですね。

 ブラナー シェークスピアのユーモアが外国でどう伝わるか興味があります。英国でさえ、シェークスピアの芝居で笑うのは不敬ではないかという傾向がある。でも悲劇が重々しいだけに、やはり笑いは必要なんです。

 染五郎 歌舞伎も同じですね。古典でなく、今生きている芝居だと思っていても、観客が構えてしまうところがあります。

 ブラナー 英国でも同じ悩みがあって、観客にこの芝居はこう演じるべきだみたいな先入観がある。だけど、私は、正しいやり方なんていっさいない、一番正しいやり方は自分の気持ちに忠実にやることだと思います。スタイルは自分で作っていくものです。

 染五郎 ロンドンでは、それだけ生活に演劇が密着しているのでしょう。日本はまだそういう状況ではないのが残念ですね。

 ブラナー 日本の演劇界では、ハムレットを演じることは、どうみられているのですか。

 染五郎 “ハムレット役者”という言葉があるように、だれもが、あこがれる役です。

 ブラナー 英国でも同じ言葉がありますよ。人間はコントロールできないものと戦うキャラクターにひかれる。その象徴がハムレットなのです。なぜ生きているか、人生とは何なのか追い求めるシンボル的存在ですから。

 染五郎 映画版は映画ならではの演出が印象に残りました。

 ブラナー ハムレットは非常に内面的な人間で、それを劇場空間で表現するのは非常に難しい。でも、映画のカメラなら彼の頭の中に入れるのです。そこに、映画ならでは解放感がありました。

 染五郎 ぼくは一家で俳優をやっていて、父は四大悲劇をすべて演じ、妹はオフィーリアをやります。やはり舞台を中心にやっていくことになるでしょうね。

 ブラナー 私は家庭的なコネクションがないし、あればどんなに誇らしいでしょう。お父様は芝居について批判されますか。

 染五郎 いろいろと、意見をいわれます。

 ブラナー それはいい。そのための父親ですから。

 染五郎 そうですね。今度はぜひ、歌舞伎も見に来てください。

 (構成 田窪桜子)

               ◇

 いちかわ・そめごろう 昭和48年、東京都生まれ。歌舞伎俳優、9代目松本幸四郎の長男。54年、歌舞伎座で初舞台を踏み、56年7代目染五郎襲名。歌舞伎だけでなく、14歳で『ハムレット』に主演、昨年は父幸四郎と二人芝居『バイ・マイセルフ』に出演するなど幅広いジャンルで活躍。今後も、新派『花丸銀平』(3月2−25日、東京・新橋演舞場)、『市川染五郎の會』(3月27日、東京・浅草公会堂)、『アマデウス』(4月25−5月17日、東京・池袋のサンシャイン劇場)と、多彩な舞台がめじろ押し。

 『ハムレット』(福田恆存翻訳、末木利文演出)は9月2−6日、東京・池袋のサンシャイン劇場で。問い合わせはTEL03・3987・5281。

               ◇

 ケネス・ブラナー 1960年、アイルランド生まれ。イギリス移住後劇団活動をはじめ、ロンドンの名門「ロイヤル・アカデミー・オブ・ドラマティック・アート」で学び、20歳で初めて『ハムレット』を演じる。82年、舞台『アナザー・カントリー』でプロデビュー。84年、「ロイヤル・シェークスピア・カンパニー」に参加。88年には劇団「ルネサンス・シアター・カンパニー」設立。数々のシェークスピア劇に出演する。89年、初の映画『ヘンリー五世』で主演、監督、脚本を手がけアカデミー賞主演男優賞と監督賞にノミネート。主な映画作品は『愛と死の間で』『から騒ぎ』『フランケンシュタイン』など。

               ◇

 ◆最初の四大悲劇

 シェークスピア四大悲劇の最初の作品。一六〇〇年ごろに初演された。デンマークの王子、ハムレットは父の亡霊の言葉によって父を毒殺したのは母、ガートルードと再婚した叔父、クローディアスであると知る。彼は叔父への報復を誓い、実現するのだが…。四百年近くたった今も、さまざまな解釈で、世界中のスターによって上演されているシェークスピアの代表作のひとつ。

 来月二日から二十九日まで東京・銀座セゾン劇場でも、真田広之主演の『ハムレット』(蜷川幸雄演出)が再演される。オフィーリアは染五郎の妹、松たか子。

 【映画版『ハムレット』】

 シェークスピアの原作を世界で初めてノーカットで映画化。時代を中世から十九世紀にうつし、ブラナーの斬新(ざんしん)な解釈が盛り込まれている。世界的テナー、プラシド・ドミンゴが歌う主題歌、ロビン・ウィリアムズ、ジャック・レモン、チャールトン・ヘストンらハリウッドのトップスターが顔をそろえる豪華わき役陣も話題。上映時間は四時間三分(休憩二十分)。

【写真説明】

初めてハムレットを演じた染五郎(当時14歳)

ケネス・ブラナー(左)のファンという染五郎(右)は緊張気味に対面。ハムレットの演技について次々と質問した

映画版でハムレットを演じるケネス・ブラナーとオフィーリアのケイト・ウィンスレット


奥菜恵 美少女を卒業 大人の女優へ芸能活動「全力投球宣言」

[1998年05月26日 東京夕刊]

 この春に高校を卒業したのを機に、タレントの奥菜恵(おきな・めぐみ)(一八)が、芸能活動に全力投球宣言。夏以降、名前をテレビなどで目にする機会も増えそうだから、事前にそのキャラクターをチェックしよう。(石井健)

 人気のバロメーターは、写真集の売り上げ。四月一日に発売された『7years of』(学研)は、発売直後にベストセラーの二十位(トーハン調べ)に入り、すでに七万部を売った。同日に発売した四枚目のCDアルバム『i・n・g』(日本コロムビア)と両方の購入者を対象に、東京・新宿の紀伊国屋書店本店でサイン会を開いたところ、千三百人も集まった。若い男性に交じって三十代の女性や六十代の男性もいて関係者を驚かせた。

              ×  ×  ×

 昭和五十四年八月六日生まれの東京育ち。父親の知人である事務所社長にスカウトされ、四年にドラマ『パ★テ★オ PART 1』(フジ系)でデビューしたときは小学生。五年のドラマ『「ifもしも」〜打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?〜』(フジ系、七月三日にスカイパーフェクTVでも放送予定)は、今をときめく岩井俊二監督の作品で、七年には劇場版も公開されている。同年、「この悲しみを乗り越えて」で歌手デビューし、シングル七枚、アルバム四枚を出しており、昨年三月には初コンサートも行うマルチな活動ぶり。

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 同世代のタレントでは、知名度で広末涼子(一七)、ともさかりえ(一八)という個性派の二人に譲るが、芝居の力量は勝るとも劣らないことを、今後の出演予定が物語る。まず七月三日からは、堂本剛(KinKi Kids)の相手役としてドラマ『青の時代』(TBS系、後9・00)に出演する。図書館でアルバイトする女子短大生で、鑑別所から出てきた堂本に恋をする難しい設定。

 八月二日からは、舞台『ハムレット』(同二十六日まで大阪松竹座。九月二−六日に東京サンシャイン劇場)で、歌舞伎の市川染五郎を相手にオフィーリアを務める。シェークスピア翻訳の大家、福田恆存氏のテキストを用いた正統派のせりふ劇だ。舞台は二度目だが、八年に初主演したミュージカル『アンネの日記』では、第三十四回ゴールデンアロー賞の演劇新人賞を受賞している。

 「お芝居がすごく好きなんです。舞台はお客さまの反応が伝わってくることで、毎日お芝居が変化するのが楽しい」

 来年一月からはNHK大河ドラマ『元禄繚乱』で、吉良上野介(石坂浩二)に囲われながら若い剣客・清水一学にひかれる商家の娘、浅路(あさじ)を演じる。大石内蔵助役の中村勘九郎はじめ、萩原健一、松平健、大竹しのぶらそうそうたる顔ぶれの中で、悲運も予感させる役をどう演じるか。

              ×  ×  ×

 「学校と仕事の両立は大変でしたが、それができたことで自信もつきました。これからは仕事に集中できます」と全力投球宣言。

 もっとも、芸能界に限らず今時珍しい、おっとり型のお嬢さんの素顔はデビュー以来、変わらない。高校入学以後、行っていない大好きなキャンプにでかけたいというが、誕生日がくると十九歳。写真撮影の前に、クルリと背を向けてコンパクトに向かって化粧を気にする年ごろになった。正統派美少女タレントが、女優として女性として、どんな大人になるか−。

【写真説明】

デビュー以来7年間の写真を集めた最新写真集の宣伝ポスターを背に

「時間があれば英会話、茶道、華道を習いたい」と仕事のほかにも意欲がでてきた奥菜恵

                 ◇

 写真で、恵ちゃんが背にして立っている特大ポスターを抽選で五人に。はがきに住所、氏名、年齢、職業、電話番号、奥菜恵へのメッセージ、紙面への意見などを明記し、〒100−8078産経新聞文化部芸能 「奥菜恵」係へ。締め切りは六月二日(消印有効)。


【歌舞伎&文楽】THE・ガジラ「龍を撫でた男」 新劇の名作を現代演劇として

[1999年04月10日 東京夕刊]

 東京・三軒茶屋の世田谷パブリックシアターが外部の作家の提携公演シリーズ第一弾、演劇企画集団THE・ガジラ「龍を撫でた男」(福田恆存作、鐘下辰男演出)が二十二日まで、同シアターのシアター・トラムで上演中だ。

 「龍を撫でた男」は昭和二十七年、文学座が初演。長岡輝子が演出、芥川比呂志、宮口精二、中村伸郎、杉村春子らそうそうたる顔ぶれが出演した新劇の名作だ。今回は、伊藤孝雄、佐藤オリエ、大鷹明良、千葉哲也、金久美子らが出演する=写真。

 舞台は精神科医、佐田の家の応接間。佐田と妻は中ぶらりんで奇妙な人間関係を続けている。家にはさらに不協和音を加える妻の弟が居候している。ある日、佐田家に二組の来客があり…。

 「このシリーズでは、劇団公演やスター重視のプロデュース公演では難しかった、戯曲の方向性と演出の意図を最優先したアンサンブルの構築を目指す。今回は、新劇の名作を日本の“いま”を呼吸する現代演劇として蘇らせます」と同劇場。

 問い合わせはTEL03・5432・1515。

劇団昴「罪と罰」 人間の葛藤を詩的なせりふでつづる 来月5日まで東京・千石で

[2000年06月16日 東京夕刊]

 劇団昴がドストエフスキーの名作「罪と罰」を十六日から七月五日まで、東京・千石の三百人劇場で上演する。「罪と罰」は、昭和四十年(当時は劇団雲)に劇団創立者の福田恆存が脚色し上演した大作。三十五年ぶりの再演では、菊池准が現代性を盛り込んで脚本・演出を手がける。

 舞台は一八六五年夏のペテルブルグ。現実と空想が交錯する屋根裏部屋で二十三歳の青年、ラスコーリニコフはある結論を出し、自己の存在を自ら証すために金貸しの老女を殺す。しかし、その結果、彼が見つけたものは悪夢におののく己の姿だった。判事ポルフィーリーはそんな彼の心理を執拗に追いつめ解剖していく…。

 菊池は上演を決めた理由を「推理劇的エンターテインメントを保持しながら、人間の葛藤を詩的なせりふでつづっていく。そんなことができたらどんなに楽しいだろうと思った」と話している。

 出演は桜井久直(ラスコーリニコフ)、米倉紀之子(ソーニャ)、西本裕行(ポルフィーリー)=写真左から、谷口香(プリヘーリア)、小沢寿美恵(アリョーナ)ほか。視覚障害者用音声ガイド付き。問い合わせは劇団昴TEL03・3944・5451。


【演劇ワンダーランド】記憶の中の「罪と罰」

[2000年07月03日 東京夕刊]

 劇団昴の「罪と罰」(五日まで、東京・千石の三百人劇場)を見ながら、複雑な気持ちに襲われた。記憶の不思議というか、思い込みのあいまいさを再確認させられたからだ。

 まず、「罪と罰」の舞台化を目にして、懐かしさが怒とうのように押し寄せてきた。チラシに福田恆存脚色の文字があり、昴の前進劇団「雲」の時代がよみがってきた。劇団雲公演として、福田演出の「罪と罰」を東京・有楽町の読売ホールで見た記憶が、内藤やす子の歌ではないが、「想い出ぼろぼろ」といった感じでポツンポツンと浮かんできた。

 ドストエフスキーのあまりに著名な小説だから、ストーリー的に身近な思いがあった。いつ以来の上演か、とプログラムを読んでがく然とした。わたしが見たのが初演で、昭和四十年のことだから、なんと三十五年ぶりの再演。大学三年の秋、友人たちが就職に向け進路のあれこれを、顔を合わせれば語り合っていたころに、わたしはのんびり芝居を見ていたのだ。

 今振り返れば、よく見ていたと自慢に思うほどだが、ショックなのは、菊池准脚本・演出の新装版となった今回の舞台に引き込まれながら、わたしの記憶は一点、主人公ラスコーリニコフを演じている桜井久直という青年俳優に重ねて、初演で見た芥川比呂志の胸をえぐる鮮烈な雰囲気を探していたこと。桜井は、貧困が生む社会矛盾を明確な「三段論法」に組み立てて、ラスコーリニコフにとって必要のない金貸しの老女殺害に至る心理過程を、好感が持てる正攻法演技で見せていた。が、桜井の硬質な悲劇性もいいが、芥川にはよりシニカルな喜劇性があったような…と、わたしは記憶をたぐっていた。ところが、後で劇団関係者に初演パンフレットを見せてもらって驚いた。ラスコーリニコフは高橋昌也で、芥川はラスコーリニコフの幼児性を追究する判事のポルフィーリイを演じていた。芥川のぎらついた目とずしんとした声ばかりが、わたしの初演の記憶だったのだ。

 公演中の舞台はしかし、桜井とソーニャの米倉紀之子はじめ、昴の俳優たちが、神と貧困と人間の狂気が充満する物語に正面から取り組んでいて、現在ただ今の社会状況を照射する見ごたえのある仕上がりになっている。

 (演劇コラムニスト 石井啓夫)


鹿賀丈史 第2の俳優人生出発点に 12年ぶりストレートプレー「マクベス」

[2000年09月06日 東京夕刊]

 俳優の鹿賀丈史が、シェークスピアの悲劇「マクベス」(福田恆存翻訳、鐘下辰男上演台本・演出)で十二年ぶりにストレートプレーに挑む。鐘下が鹿賀にあて、シェークスピア調のせりふにとらわれず現代的なドラマをと、新たに上演台本を書き下ろした。鹿賀は「五十歳を迎え、『マクベス』を第二の俳優人生の出発点に」と力が入っている。(田窪桜子)

 鹿賀は劇団四季出身。昭和六十二年からはミュージカル「レ・ミゼラブル」に出演しているが、ストレートプレーは「トーチソング・トリロジー」以来となる。お茶の間には人気テレビ番組「料理の鉄人」(放送終了)の司会でもおなじみだ。

 「マクベス」に出演を決めた理由を鹿賀は、「『レ・ミゼラブル』を年に二カ月ぐらいやっていることで、どこか俳優として満足してしまっているところがあった。でも、新しい舞台を自分の中でやっていかないと、俳優としての区切りがつかない。若い時やっていた舞台をきちんとやり直さなくてはと思い始めたとき、この話をいただいた。運命的に出合えたような気がする」と話す。

 鐘下はTHE・ガジラを主宰する気鋭の若手劇作家で演出家。鹿賀とは初顔合わせだ。鐘下は今回「マクベス」の特徴である独白をなくし、会話で構成した。

 舞台装置もシンプルで、ドラマは役者にゆだねられる部分が大きい。

 「いろんな演出があると思いますが、脚本を読んでいるだけでは分からない部分など、新しい発見がたくさんありました。マクベスは精神的に強い部分もあるのですが、一方で殺りくをくり返すのは内面的な弱さ、心の揺れのためでもある。人間の感情の幅が広いので演じる面白さも広い。ごらんになった方は、従来の『マクベス』とは違った、現代的心理劇に見えると思います」と鹿賀。

 けいこでは、意欲的に動き回って、エネルギッシュだ。ひと回りも若い演出家との仕事も楽しんでいるようだ。

 「ミュージカルでかく汗とは違いますね。演出家は、その時その時のうそのない芝居、常に新鮮な心の動きがよくわかるような演技を求めている。演技も動的です。舞台上で息づかいが荒くなったりしているけれど、それが役の感情に重なっていく。そういう若い人の感覚も新鮮です」

 今後はこれをきっかけに、新しい舞台にも意欲的に取り組んでいく予定だ。来年はすでに三作の舞台が待っている。

 「舞台俳優が、自分の中で一番大きな仕事。客席と同じ時間を共有できるということは魅力です。テレビなど映像も嫌いではないですが、ぼく自身がお客の前にさらけ出しても見るに堪えうる存在でいられるか、試していくことも必要。五十代は舞台です」と張り切っている。

 マクベス夫人に高橋恵子、魔女に荻野目慶子。ほかにすまけい、木場勝己、若松武史らが出演。八−三十日、東京・初台の新国立劇場中劇場TEL03・5352・9999。

【写真説明】

「基本的にはダイナミックなエンターテインメント。自分でやって面白いと思えることも大事」と話す鹿賀丈史


オスカー・ワイルド没後100年世紀末に各地でイベント

[2000年11月12日 東京朝刊]

 「預言者ヨカナーンの生首を銀盆に乗せてじっとその目を覗き込んでいるサロメが怖かった」と久世光彦『怖い絵』もビアズリーの絵に重ねて耽美的に描いている。「サロメの眉は新月のように細く、ヨカナーンの血塗れの髪の毛をしっかり掴んだ指は柳の枝のように美しかった」。戯曲『サロメ』や『ドリアン・グレイの肖像』などで知られるオスカー・ワイルド(一八五四−一九〇〇年)没して百年。二十世紀の終わりに、十九世紀末のデカダントな唯美主義を読み直す出版やイベントが内外で盛んだ。(田中紘太郎)

 ◆三島30年とも重なる唯美主義の読み直し

 「銀の皿に、ヨカナーンの首を…」。連休中日の四日、「サロメ」の朗読劇も行れた。ワイルドの誕生日の十月十四日から命日の十一月三十日までを「ワイルド月間」として、日本ワイルド協会が東京・神田神保町の北沢ギャラリーで開催中の記念イベントである。この日は「サロメと私」のテーマで、同協会会長の川崎淳之助・聖徳大教授のフランス語原文からの『サロメ』の翻訳話、会場に展示された六世紀来のサロメの絵四十一点についての井村君江・明星大教授の図像解説と併せ、「サロメ女優」の森秋子さんを迎えてのものだった。

 「あの事件を聞いて、ああこれで舞台も幻に、と思ったものでした」といった思い出話がつづいた。昭和三十五年、岸田今日子主演で「サロメ」を演出した三島由紀夫は十年後に再びサロメを選ぶ。オーディションが四十五年十月末、衝撃の自決は十一月二十五日である。劇団浪曼劇場公演は「三島追悼公演」の形で翌年二月から挙行された。「…東洋の神秘と西洋の神秘との混合体である古拙な美にあふれたサロメの肢体が、身悶えてほしいのである」とパンフレットに遺した三島に応えて、「全裸のサロメ」を演じた女優は「あれから、もう三十年…」と感慨深げに話した。

 三島の自決後三十年と重なるワイルド没後百年、その周辺をみてみよう。

 『サロメ』は日夏耿之介訳、西村孝次訳(新潮文庫)と数多いが、福田恆存訳(岩波文庫)はこの五月、ビアズリーのさし絵十八点を収録して改版、ユリイカ四月臨時増刊号「オスカー・ワイルドの世界」(青土社)も出た。ワイルド協会員らによる『オスカー・ワイルド事典』(北星堂)、山田勝『オスカー・ワイルドの生涯』(NHK出版)などの出版も続いている。ワイルド協会のイベントは十八日も同会場で開かれる。

 海外では生地アイルランドで寓(ぐう)話『幸福の王子』などの著作もあしらった記念切手が発行されたり、大英図書館では風刺作品『真面目が肝心』の原稿を展示、今月末からはワイルド展も開催される。また三年前にマダム・タッソーろう人形館に登場したことなども話題だ。

 先の井村教授がいう。「五年前、英ウエストミンスター寺院のステンドグラスにワイルドの名前が刻まれた。海外でのワイルドの復権と再評価はそれからなのです。芥川龍之介、谷崎潤一郎、三島とワイルドは日本文学に多大な影響を与え、本格研究も日本でこそ進んできたといえる。欧米では男色事件による投獄のスキャンダルが宗教的禁忌から尾を引いていたんですね」

 ・芸術が人生を模倣するよりはるかに強く、人生は芸術を模倣する(『嘘の衰退』)

 ・(求めるのは)幸福ではない。断じて幸福ではない。快楽だ(『ドリアン−−』)

 芸術至上主義とダンディズムの警句や箴言とともに、「緑のカーネーション」(同性愛のシンボル)を付けたワイルドも有名だ。投獄されたのは一八九五年(四十一歳)から二年間。相手はダグラス卿、『サロメ』仏語版の英訳者である。

 「世のつねの作家は作品のなかで犯罪を犯す。『サロメ』と『ドリアン・グレイ』は作品によるかかる犯罪である。ワイルドはそれだけでは満ち足らない」と三島由紀夫は「オスカア・ワイルド論」(昭和二十五年)で書いている。「…それにしては後年彼が犯した罪は、あんまりささやかすぎるやうに思はれる」

 ワイルドの評論集を手に、小林秀雄が「やれダンディの唯美派のと、あまり評判はよくねえが、どうして大変な勉強家で正統なモラリストさ」と語ったエピソードを西村孝次氏がユリイカ増刊号で紹介しているが、欧米では「十九世紀のシェークスピア」という見方から、「十九世紀のロラン・バルト」とポストモダン風に評する向きまであるようだ。百年を経て立ち現れるのは「多義的なワイルド」である。

【写真説明】

オスカー・ ワイルド


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