訃報


【訃報】劇作・評論家 福田恆存氏が死去 進歩的文化人の偽善指弾

[1994年11月21日 東京朝刊]

 戦後保守派の論客として知られ、劇作・評論家で、「ハムレット」研究でも著名な日本芸術院会員、現代演劇協会会長の福田恆存(ふくだ・つねあり)氏が二十日午後一時八分、肺炎のため神奈川県大磯町の東海大学大磯病院で死去した。八十二歳だった。東京都出身。自宅は神奈川県中郡大磯町山王五一三。葬儀・告別式の日取りは未定。喪主は妻、敦江(あつえ)さん。

 東京・本郷で生まれ、東大英文科を卒業後、東京女子大講師などを経て、文学や政治、教育など各種の評論、劇作、翻訳と多彩な分野で活躍した。

 昭和二十五年に発表した戯曲「キティ颱風」では現代人の不毛な孤独感を風刺的に描き、演劇界に旋風を巻き起こした。それ以降、三十年に「ハムレット」の翻訳・演出で文部大臣賞、四十七年には「総統いまだ死せず」で日本文学大賞を受賞した。さらに、一連の評論活動で五十五年に菊池寛賞、翌五十六年には日本芸術院賞も受賞している。

 昭和三十八年には文学座を離れた役者と劇団「雲」を結成、現代演劇協会を設立した。当初、劇団「雲」「欅」(けやき)の二劇団制をとったが、五十一年に統合し、付属劇団として「昴」(すばる)を創立した。

 代表的な著作に「近代の宿命」「人間・この劇的なるもの」「人間不在の防衛論」などがある。

 戦後の論壇で、人間性を冷徹に洞察する立場から、非武装中立論や原水爆禁止運動における進歩的文化人の偽善を鋭く指摘。左翼から「右翼反動」の非難を受ける一方で、自民党政治の欺瞞(ぎまん)性を暴いた。

 また、文化の根源としての言語を重視し、戦後の国語改革を厳しく批判、「歴史的仮名遣い」(旧仮名遣い)による文章を守り通した。「チャタレー夫人の恋人」をめぐる“文学か、わいせつか”裁判では、表現の自由を主張し、弁護側の特別証人にもなった。

 常に孤立を恐れない独自の視点で、ラジカルな論陣をはった生涯だった。哲学者の故田中美知太郎、政治学者の猪木正道氏らとともに、本紙「正論」の創設以来のメンバーとしても建筆をふるった。(3、社会面に関連記事)


福田恆存氏の逝去を悼む――評論家・西部邁 戦後保守の先頭に屹立

[1994年11月21日 東京朝刊]

 ここ十年ばかり、十人ばかりの肉親、先輩、そして同僚が鬼籍に入っていくのをみさせられてきた。そのうちで、今度の訃報(ふほう)は、私の精神の腰が折られたように思うのである。

 十年ほど前、お前の言っていることは、福田恆存によってすでにすべて言われている、との批判を、ある方面から寄せられて、私は、氏の著作に、時期遅れに取り組んでみた。そして、その思索の鋭さと表現の鮮やかさに魅せられつつ、私なりの福田恆存論をものしてみた。

 作品としての水準の差は、はっきりしていたが、たしかに氏と私の論述は、ほとんど同じことへ向けられていたのである。物事を、逆理もしくは二律背反のうちにみて、そこで平衡の支点を求めること、そして、そこへの接近法を内蔵しているものこそ、伝統の精神にほかならないのだということ、それが福田氏の主張であった。

 私もまた、ずいぶんと遅鈍な姿においてではあるものの、同様の見解にたどりつき、四十歳になったころ、自分を保守思想の系譜の末席に位置づけてみる以外に、生きようがないのだと悟った。そして、戦後における保守の流れの先頭に福田氏が屹立しているとわかった次第である。

 ◇

 福田論を書いてから福田氏と会見し、それからも年に一、二度といった調子で、私は氏をたずねた。それは、私の中年期における最大の悦(よろこ)びであったばかりでなく、最重要の仕事でもあった。あえて仕事というのは、人格と作品とを区別しないという私の流儀からして、福田氏の存在そのものが、大いなる作品であるように思われ、したがって、その謦咳(けいがい)に接することが、私の認識にとって、かけがえのない刺激になると予想されたからである。

 それは私には、いくぶんつらいことだったのだが、文字通りの謦咳であった。せきばらいであった。つまり、私が福田氏の前に現れたころ、すでに氏は、病魔に襲われており、とりわけ発声に困難を感じておられたのである。

 しかし、氏の全作品を穴のあくほどみつめてしまっていた私には、氏の片言隻句からも多くのことを感受し、確認することができた。我田引水をおそれずにいうと、そうした私の反応ぶりに、氏も少々の愉快を感じておられるようであった。それが真実であったと思いたい。氏の、長きにおよんだ闘病生活において、私のおくればせの出現が、わずかでも気晴らしになっていたとしたら、私としては本望である。

 ◇

 福田氏が、たった独りで、しかも物事をわかりやすくするために、喧嘩腰の物言いを、あえて選びつつ、闘いを挑んだのは、戦後においておびただしく氾濫した知識人の偽善と欺瞞(ぎまん)にたいしてであった。

 知識という合理が、感情という非合理に根差すこと、そして感情が知恵を宿すのは、それが歴史を引き受ける場合にかぎられること、この良識を拒否したばかりか、破壊してきたのが、戦後知識人である。

 歴史を破壊することに進歩を見い出すような一切の言論を、氏は容赦なく裁断し、それらの被るにせの権威を、ひとつひとつ剥ぎとっていった。その言論戦において示された氏の表現の果敢と華麗は、少しでも心あるものには、みごとというほか形容のしようがない。

 しかし、福田氏の最後の発言は、「言葉は虚(むな)しい」というものであった。戦後という時代は、福田恆存という時代批判者を、敬して、というよりも疎んじて、遠ざけたのである。その明晰は理念にすぎぬ、その情熱は風刺にすぎぬ、とみなされた。

 しかも知識人たちは、その福田評をほとんど一度たりとも公言することなく、いわば仲間うちの内証話として、福田には近づくなという回状をまわした。そうすることによって、彼ら知識人は、知識そのものを冒涜したのである。

 素直な気持ちで福田氏のものを読めば、その理屈が結構を保った言葉のドラマになっていること、その辛辣な言葉づかいに物哀しげな優しさすらもが秘められていることに気づくはずだ。少なくとも私という読者は、福田氏の言葉にあふれんばかりの充実をみたのであるし、数少ないとはいえ、私よりも年若い読者にも、言葉は虚しくはないことの見本を、福田氏の人格と作品にみているものがいる。

 −−もちろん、そのことを私は福田氏に伝えた。それを聞いて、とても本当のこととは思われませんねといった様子で、氏が苦笑していたのも、もちろんのことである。

 ◇

 今、世間は、世代交代の掛け声でみちている。私の父はとうに亡くなり、そして私の父と同年であった福田氏も逝かれた。次は私たちの世代が、生きるにせよ、死ぬにせよ、社会のさまざまな舞台の前面に立つという成り行きなのかもしれない。

 しかし、私はそれを、世代交代などとはよびたくはない。異なった世代のあいだの交流、それがなければ、時代は、時間の虚しい経過を意味するにとどまる。

 福田恆存という死者に、なおも語らせ、それになおも聴き従うのが、われらの世代の務めなのではないか。

                    ◇

 【略歴】

 にしべ・すすむ 評論家。昭和十三年、北海道生まれ。東大卒。元東大教授。『生まじめな戯れ』『幻像の保守へ』『大衆への反逆』『六〇年安保』など著書多数。


福田恆存氏死去 雑誌論文で平和論争巻き起こす

[1994年11月21日 東京朝刊]

 二十日亡くなった劇作・評論家、福田恆存さんは戦後の言論界で、左翼一色の言論や進歩主義者の欺瞞(ぎまん)に真っ向から挑み、保守派の孤塁を守り通した論客だった。

 特に、昭和二十九年、雑誌『中央公論』に発表した論文「平和論の進め方についての疑問」では平和論争を巻き起こし、非武装中立論や原水爆禁止における進歩派知識人の態度を痛烈に批判。

 また、国語審議会やローマ字論者、日教組、社会党などを次々に論破したが、「問題の所在はどこにあるか」を常に考えようとする視点は、揺るぎない論理を構築していた。

 東京・下町の生まれで、職人の家庭に育った。酔うと、「うちの親類にはインテリなんて一人もいねえんだよ」が口癖だったが、それはいたずらに観念に走らず、庶民生活の実感を重んじる姿勢につながっていた。飾らない人柄だった。

 演劇への熱い情熱も保ち続けた。三島由紀夫氏らと文学座に参加し、自らの劇団を旗揚げする熱の入れようだ。自作の演劇の講演では自ら受付に立ち、「何と批評されても文句は言いません」と周囲の批判には素直に耳を傾けた。

 晩年には沈黙を守ったが、軽薄な風潮への無言の批判だったかもしれない。

                   ◇

 ◆電気通信大教授・西尾幹二氏

 福田先生が亡くなられて万感の思いです。私は先生に、考えることの本当の喜びと恐ろしさを教わりました。青年が精神的に決定的な影響を受けるのは、ニーチェやドストエフスキーだったりするのですが、私の場合は福田先生でした。先生は「考えることは疑うことである。疑うことは信ずることである」というような意味の二重性に耐える生き方を教えられました。初めて書物に接したのは『芸術とはなにか』ですが、六〇年安保当時の『常識に還れ』は、あの時代の雰囲気のなかで、私には非常な救いでした。

 先生のお書きになったものにはいつも、自由と宿命、政治と道徳、個人と集団といった二元論的な対立軸があり、思考そのものが劇的でした。それが、先生の演劇論と政治論とを、切っても切り離せないものとしています。政治的には、今日ではリベラリストと称する、権利だけ主張し、人格を崩壊させている連中と、激しく闘った方です。

 そして理想家でした。リアリストの反対語は空想家です。福田先生にこそ文化勲章がふさわしかったと信じます。


故福田恆存氏の本葬、告別式

[1994年11月21日 東京夕刊]

 故福田恆存氏(劇作・評論家)の本葬、告別式 12月9日午後1時から東京都港区南青山2の33の20、青山葬儀所で。葬儀委員長は作家の阿川弘之氏。喪主は妻、敦江(あつえ)さん。


【葬送】劇作家・評論家 福田恆存氏(9日 東京都港区・青山葬儀所)

[1994年12月10日 東京朝刊]

 福田さんはベートーベンのチェロ・ソナタを愛したという。その調べが流れる式場に文学、演劇、音楽、政治など各界の著名人が沈痛な表情で集まった。その顔触れに、孤立を恐れず、戦後の偽善的な思想状況と闘い、八十二歳で逝った故人の人柄を見る思いがした。

 元東大総長の林健太郎さんは五十年来の盟友。「鋭敏な感性と強じんな思考力の人でした。他の人にない精神的な深さを感じました。論文はいつも論争を巻き起こしていましたが、その意見に救われた人も多かったと思います」と弔辞を述べた。

 東京帝大英文科を卒業し、文芸評論家として出発。戦後、「竜を撫でた男」などの傑作戯曲を書き、「シェイクスピア全集」などで優れた訳業を残した。現代演劇協会創立に尽力、「私の国語教室」などで歴史的仮名遣い擁護の論陣も張った。

 なかでも強烈なインパクトを持ったのは、昭和二十九年の「平和論の進め方についての疑問」ほかの論文。非武装中立論や原水禁運動における進歩的文化人の態度を痛烈に批判、平和論争を巻き起こした。六〇年安保に際しては「常識に還れ」と訴え、生涯“硬骨の常識家”としての面目を失わなかった。本紙「正論」の創設メンバーとしても健筆を振るった。

 葬儀委員長を務めた作家の阿川弘之さんは「四十年前にあのようなことを言うのは、勇気のいることでした」とたたえた。

 また、友人だった原文兵衛・参議院議員も「鋭い人でした。痩身(そうしん)のどこから、あのエネルギーとファイトが出てくるのか感嘆するばかりでした」と振り返った。

 東京・本郷に生まれ、神田で育った下町っ子。庶民生活を重んじる飾らない人柄だった。酔うと「親類にはインテリなんて一人もいねえんだよ」が口癖だった。

 最後に遺族を代表してあいさつに立った二男の逸(はやる)さんは「父は、書きかけの喜劇の戯曲をよく、笑いながら見せにきました。笑いが絶えない家庭で、そのペースメーカーだったのが父でした」と語った。(渋沢和彦)


会田雄次さん死去 野田宣雄・南山大学教授(政治史) 安物の戦後民主主義を批判

[1997年09月20日 東京朝刊]

 談論風発の方だった。

 私は昭和二十九年に京大文学部の史学科(西洋史学)に入った。そのとき、会田先生は京大人文科学研究所の助教授だった。

 ほとんど毎日のように研究室にやってきては、学生や院生をつかまえて議論する。毒舌家で、ざっくばらんな関西弁で相手にどんどん切り込んでいった。話が長引き、場を喫茶店に移して夜遅くまで議論することもしばしばだったし、そのまま祇園の酒場になだれこむこともあった。後にジャーナリズムや論壇ではなばなしく活躍されるようになったが、当時からその素地は十分あったわけだ。

 議論していると、よく「そんなのは安物や」ということばが出てきた。気取ったり、形式ばっているだけの「安物」を、心底、嫌っておられた。

 アメリカからきわめて高名な社会学者がきて、日本の学者と会った。オリジナリティーのなさがちょっと期待はずれだったらしい。最後に会田先生と会って「日本の学者はつまらない」とこぼすと、先生は「みんな安物やから」と。二人の間ではとても話が弾み、以後、その学者は先生に心服するようになった。会田先生のオリジナリティーがひきつけたのだろう。

 先生は、いい意味での保守思想家だった。戦後日本の浅薄な民主主義、その背景にある西欧ヒューマニズムの限界を痛感していた。

 といっても、大上段にふりかざして形式ばった議論をするのではない。どこか斜にかまえたところがあった。たとえば「家庭」をテーマに、戦後のひ弱いマイホーム主義を批判する。これは大岡昇平らとの間で「家庭論争」となったが、先生はこんなふうに、いつも日常的、即物的なところから発想した。

 戦後民主主義や西欧ヒューマニズムへの批判の根底には、人間の弱さや悪の部分を見据えた独特の、人間観察のまなざしがあったと思う。そのまなざしは、ご自身の戦争体験からくみ取ってきたのだろう。

 それは『アーロン収容所』などに書かれている通りである。ビルマで英軍の捕虜となり、イギリス人と日常的に接しながら、西欧の近代主義なるものの実態を、先生はいやというほど経験した。西欧ヒューマニズム一辺倒の日本の戦後民主主義に、うさんくささを感じたとしても当然だ。

 左翼思想が全盛の戦後の論壇の中で、先生が占めた位置は大きい。先生をはじめ、山本七平、福田恆存ら才能豊かな各氏が、ときには毒舌をもって左翼公式主義を批判した。そういう蓄積があって、一九七〇年ころからじわりじわりと、日本の論壇に保守主義のいい影響が出てきた。

 冷戦が終わって、日本はまったく新しい歴史の局面にきている。会田先生の精神から学ぶべきことは、人間の弱さや悪の部分を見据えたうえで、社会や政治について議論するということだ。そうでなければ、また形式的な「安物」になってしまうだろう。(談)


【94レクイエム】国内・海外

[1994年12月30日 東京朝刊]

 【国内】

 ◆3月26日 片岡仁左衛門 歌舞伎俳優 90歳

 人間国宝。文化功労者。上方歌舞伎の復興に尽くし、晩年は不自由な目を押して舞台出演を続けるなど、最後まで見事な役者人生を演じた。

 ◆5月17日 村松剛 文芸評論家 65歳

 「評伝アンドレ・マルロー」「中東戦記」などをまとめ“行動する批評家”として知られた。仏文学、中東、日本の伝統文化と知識を吸収し続けた。

 ◆7月26日 吉行淳之介 作家 70歳

 “第三の新人”の一翼を担う。性を通じて人間存在の本質を問う多くの秀作を残した。「驟雨」で芥川賞。他に「砂の上の植物群」「夕暮まで」など。

 ◆9月23日 京塚昌子 女優 64歳

 テレビドラマ「肝っ玉かあさん」シリーズで人気。庶民的で温かい“日本のおかあさん”を演じて、あこがれの母親像を作り上げた。実生活では独身を通した。

 ◆10月11日 鈴木永二 前日経連会長 81歳

 臨時行政改革推進審議会会長。経済界だけでなく政界や行政に対しても直言を呈し「財界のご意見番」として国民の幅広い支持と共感を得た。

 ◆11月20日 福田恆存 劇作・評論家 82歳

 翻訳や文学、政治、教育評論など多彩な分野で活躍した。戦後保守派の論客として進歩的文化人の偽善を鋭く指摘した。著作に「近代の宿命」など。


1.23 外島健吉 元神戸製鋼所社長・会長 元神商会頭   91歳

  24 丸山邦男 社会評論家 左右両翼の運動で評論活動  73歳

  25 森滝市郎 原水禁国民会議代表委員 広大名誉教授  92歳

  30 豊田穣 作家 戦記小説で活躍「長良川」で直木賞  73歳

 2・1 藤島桓夫 歌手 「月の法善寺横丁」など      66歳

  16 近藤元次 衆院議員 元農水相 農政に尽力     63歳

  22 山田恵諦 比叡山延暦寺住職 日本仏教界の最長老  98歳

  23 藤田小女姫 占い師 テレビの身の上相談で人気   56歳

  24 稲見一良 作家 「ダック・コール」で山本周五郎賞 63歳

 3・6 勝木保次 元東京医科歯科大学長 文化勲章受章   88歳

  14 田畑忍 同志社大名誉教授 元同志社大学長     92歳

  14 山下元利 衆院議員 元防衛庁長官         73歳

  17 安井かずみ 作詞家 エッセイスト「私の城下町」  55歳

  22 胡桃沢耕史 作家 「黒パン俘虜記」で直木賞    68歳

 4・1 北原安定 元電電公社副総裁 元NTT副社長    79歳

  14 利根山光人 洋画家 メキシコ文化を紹介      72歳

  22 山本陶秀 備前焼の第一人者 人間国宝       87歳

  26 大山倍達 国際空手道連盟極真会館総裁       70歳

 5・4 悠玄亭玉介 江戸の座敷芸を伝える幇間       86歳

  31 富岡惣一郎 洋画家 独特の油彩画で高い評価    72歳

 6・1 外野村晋 俳優 「金環蝕」 テレビ「事件記者」  82歳

  13 野口久光 ジャズ評論の草分け 「ジャズへの道」  84歳

  19 加藤一郎 早大理工学部教授 ロボット博士で有名  69歳

  21 岡田誠三 作家 「ニューギニア山岳戦」で直木賞  81歳

  22 石橋エータロー 元クレージーキャッツ 料理研究  66歳

7・10 永末英一 元民社党委員長 前衆院議員       76歳

 8・2 武井義明 ジャズ歌手 戦後のジャズブームを担う  60歳

   8 鳳啓助 漫才・台本作家・劇団主宰と多彩な活躍   71歳

 9・1 三田純市 演劇評論家 上方の笑いと人情を描く   70歳

   8 東野英治郎 俳優 テレビ「水戸黄門」で人気    86歳

  10 古今亭志ん馬 落語家 テレビ「意地悪ばあさん」  59歳

10・5 中条静夫 俳優 軽妙洒脱で渋い脇役        68歳

11・2 槙野勇 元警視総監 金大中氏ら致事件などを指揮  77歳

   5 利光達三 小田急電鉄会長 元日本民営鉄道協会長  74歳

  27 福田信之 元筑波大学長 筑波大創設に寄与     74歳

12・1 後藤達彦 プロデューサー 「11PM」「夢工場」 63歳

  11 レオナルド熊 独特のギャグで人気のコメディアン  59歳

  19 細川隆元 政治評論家 「時事放談」で辛口評論   94歳

  21 千田是也 俳優・演出家 劇団俳優座代表      90歳

  22 乙羽信子 女優 「愛妻物語」「原爆の子」     70歳

              ◆  ◇  ◆

 【海外】

 ◆2月24日 ダイナ・ショア 米歌手 76歳

 甘く上品な声が身上でヒット曲に「ボタンとリボン」「青いカナリア」「夜のブルース」など。自らの名を冠した女子プロゴルフのメジャー大会がある。

 ◆3月23日 ジュリエッタ・マシーナ 伊女優 74歳

 「道」のジェルソミーナ役の好演で脚光を浴びた。「カビリアの夜」でカンヌ国際映画祭最優秀女優賞。映画監督の故フェデリコ・フェリーニ氏夫人。

 ◆4月22日 リチャード・ニクソン 米37代大統領 81歳

 中国・旧ソ連との関係を改善し、緊張緩和に貢献した。「ウォーターゲート事件」で任期半ばで辞任。世界史に異彩の軌跡を残した現実政治家。

 ◆5月1日 アイルトン・セナ F1ドライバー 34歳

 “音速の貴公子”と呼ばれた。モナコGPでF1初制覇以来史上最多の6勝を挙げ、モナコ・マイスターの称号を受けた。GPレース中事故死。

 ◆6月14日 ヘンリー・マンシーニ 米作曲家 70歳

 80曲以上の映画音楽を手掛け「ムーンリバー」「酒とバラの日々」「シャレード」などの傑作でアカデミー賞を四回、グラミー賞を二十回受賞した。

 ◆10月20日 バート・ランカスター 米俳優 80歳

 西部劇から芸術作品まで幅広い名演でファンを魅了した。「エルマー・ガントリー」でアカデミー主演男優賞。他に「OK牧場の決闘」「バラの刺青」など。

                   ◇

 1・13 ヨハン・ホルスト ノルウェー外相 中東和平仲介 56歳

   22 テリー・サバラス 米俳優 「刑事コジャック」  70歳

 2・ 6 ノーマン・デル・マー 英の指揮者        74歳

    6 ジョセフ・コットン 米俳優 「市民ケーン」   88歳

   28 愛新覚羅溥傑 清朝最後の皇帝溥儀の実弟     86歳

 3・ 4 ジョン・キャンディ 米俳優 脚本家 「JFK」 43歳

   28 ユジェーヌ・イヨネスコ 仏不条理劇の代表的作家 81歳

   29 ビル・トラバーズ 英俳優 動物保護運動家    72歳

 4・10 ビクトル・アファナシエフ 元ソ連プラウダ編集長 70歳

   17 ロジャー・スペリー 米ノーベル医学生理学賞受賞 80歳

 5・ 8 ジョージ・ペパード 米俳優 「西部開拓史」   65歳

   19 ジャクリーン・オナシス 故ケネディ米大統領夫人 64歳

 6・ 9 ヤン・ティンバーゲン 蘭経済学者 ノーベル賞  91歳

   13 ジェームズ・ポラック 米宇宙科学者 「核の冬」 55歳

 7・ 2 マウン・マウン 元ビルマ大統領         69歳

    8 金日成 朝鮮民主主義人民共和国主席       82歳

   16 ジュリアン・シュウィンガー 米ノーベル物理学賞 76歳

 8・ 3 インノケンティー・スモクトゥノフスキー 露俳優 70歳

 9・ 7 テレンス・ヤング 英映画監督 「夜の訪問者」  79歳

   17 カール・ポパー 英哲学者 現代保守思想の大家  92歳

 10・3 アンドレ・ルウォフ 仏微生物学者 ノーベル賞  92歳

12・ 8 アントニオ・ジョビン 作曲家 ボサノバの創始者 67歳

   26 シルバ・コシナ 伊女優 「鉄道員」       61歳

 =敬称略


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