「正論」關係


【正論】杏林大教授 田久保忠衛 解釈で疑義の出ない憲法に

[1993年05月18日 東京朝刊]

 ◆わい曲された政府解釈

 日本国憲法に関して同じ考え方をしてきた友人、知人の口から「にわか改憲論者」という言葉が飛び出すたびに、私もその一員と見られているのかもしれぬ、と苦笑している。「国際貢献」との表現にはいささか抵抗があるが、世界の平和におカネ以外で役立ちたいと考えると、どうしても憲法第九条が障害になってくるから、これを改めたいと思っているに過ぎないのだが、同憂の士と思ってきた人たちから水をかけられるのは決して愉快ではない。

 米国から憲法を頂戴(ちょうだい)し、国にとって一番大切な安全保障をそっくり米国にお預けした日本を普通の国に戻すのは容易でない。できれば憲法も全文を書き改めたいと考えるのだが、どのような手順と方法でそれが出来るのか。改憲はこうあるべきだとのファンダメンタリスト的発言も無意味とは言わぬが、こんがらかって手の付けられなかった糸を具体的に解すきっかけを第九条に求めてもいい時期に来ているのではないかと私は判断している。

 国際貢献なら従来の誤った政府解釈を改めるだけで十分ではないか、との意見もしばしば耳にする。確かに集団自衛権は認められているが、その行使は憲法上認められないなどというふざけた政府解釈は一日も早く改めてもらいたい。「行使の認められない権利」があると言われれば、子供でも笑い出そう。自衛隊の合憲性をめぐる議論も、「自衛権は自然権だ」と解すれば片が付く。自衛隊の国連軍への参加は「その国連軍の目的・任務が武力行使を伴うものであれば、自衛隊の参加は憲法上許されない」などと政府はもったいをつけているが、一体憲法の何条が自衛隊の参加を拒否しているのであろうか。

 従来の歪曲(わいきよく)されてしまった政府解釈を改めることは可能であろうか。押されれば引く、相手が引けば出るといった政府の無定見の姿勢は解釈に一本のスジ道をつけることを極度に困難にしている。おまけに現行憲法は人により受け取り方があまりにも多様である。私にとれば何の問題もない自衛隊の合憲性についてもいまだに一部野党には違憲の声が強いし、去る四月二十五日のテレビ朝日報道番組に出た自民党の石原慎太郎代議士は「自衛隊は明らかに第九条違反だ」と明言していた。立場の対照的に異なる人々が同じ解釈をするほど曖昧(あいまい)なところもあるのだ。

 ◆軍隊であることを明記

 PKO(国連平和維持活動)協力法の審議で、憲法解釈をめぐり政治的混乱が生じるのを、国民はいやと言うほど見せつけられた。であればこそ疑義の生まれないよう憲法を改正すべきではないのか。憲法九条第一項は一九二八年の不戦条約に基づき、侵略戦争や征服戦争を禁止していると考えるのが国際的な定説であるからそのまま残し、これまで常に論争の的になってきた第二項「前項の目的を達成するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」を削る。その代わりに自衛隊は刑法や警察法の適用を受ける警察予備隊ではなく、国の防衛を主要な目的とする軍隊であることをはっきりさせ、その最高指揮権は内閣総理大臣が持つと書けばいい。集団自衛権の行使も、日本の平和および安全維持のためには可能である旨を記してもよかろう。

 これで国連憲章と憲法との整合性がはかれる。そのうえで、今度は防衛三法との関係をすっきりさせるよう手直ししていけば汗も血も流す覚悟を国際的に披瀝(ひれき)できる。カネだけの貢献では不十分だから汗をかくところまで努力するというのも国際的な常識からすればずい分と得手勝手であって、血を流すつもりだと明言しなければなるまい。

 ◆国益と能力考え慎重に

 あとは政策上の判断の問題だ。国際貢献、改憲、自衛隊の派兵と聞いただけで「世界のあらゆるところに自衛隊を出すつもりか」と青筋を立てて怒る向きがいる。いまの国連のPKOがあまりにも手を拡げ過ぎ、国連自体も財政、組織でいろいろ難問をかかえているのは承知している。目を覆いたくなるような蛮行が続けられていながら、欧州各国がどうしていいか手をつけられず、米国もまた確固とした決断を下しかねているボスニア・ヘルツェゴビナに自衛隊を送れるはずはないし、その必要もあるまい。日本の国益と能力を慎重に計算し、行動しないとの判断を下す場合もある。国連が無力だったときには「国連中心主義」を唱え、国連の役割が初めて重視され始めたいま、「ガリ国連事務総長の協力要請には毅然(きぜん)たる態度でNOと言うべきだ」と胸を張るのはいかにも滑稽(こつけい)ではないか。

 評論家の福田恆存氏がいまから二十八年前の六五年八月号「潮」誌に書いた「當用憲法論」を読むと、そのいまなお新鮮で正確な指摘に驚く。福田氏の亜流的改憲論者から「にわか改憲論」などと叱られてもピンとこないが、お互い日本人、仲間うちの足の引っ張り合いはやめて、改憲にはどこから手を着けたらいいのか、具体的な段取りを考えようではないか。      (たくぼ・ただえ)


【座右銘】編集余話 雑誌「正論」の巻/西尾幹二氏

[1994年12月16日 東京夕刊]

 第十回正論大賞は文芸評論家の西尾幹二氏に決まった。氏の文章は実に明晰だが、原稿そのものも明瞭である。手書きの文が四百のマス目にきちんと収まって、まことに見栄えがよい。

 「原稿用紙をできるだけ汚さないようにつとめている」と語っているが、下書きは一切しない。氏によれば、原稿用紙のエンピツの字が、活字体の姿で目に映るという。

 若い頃の氏は原稿を何度も書き直していたという。それが師と仰ぐ福田恆存氏に出会い、「私は書き直しをしない」という言葉を聞いて見習うようになった。

 氏の文体を評して「私より中村光夫に近い」と恆存先生はいった。「です、ます」調の中村節とは異質のように見えて論理の展開の仕方で両者は似ている。居酒屋をこよなく愛す氏の酒席は明るく楽しい。(大島信三)


【座右銘】編集余話 雑誌「正論」の巻/対談企画

[1994年12月27日 東京夕刊]

 対談企画を考えるのは楽しい。その通りの組み合わせが実現し、話の内容が面白かったときは気分がいい。「二人の妖怪が読む政局と宰相候補」とタイトルをつけた十二月号の田村元氏と松野頼三氏の対談もよかった。

 異色の組み合わせも対談企画のポイントだ。いま発売中の二月号では新井将敬氏(衆議院議員)と加地伸行氏(阪大教授)が儒教の家族主義と死生観について語り合っている。石堂淑朗氏は「沈黙の宗教−儒教」をことし最大の本と評価しているが、その著者に政界の論客が堂々と渡り合う。

 同じ号に福田恆存氏とワシントン・ポスト編集局長の対談が掲載されている。「正論」と縁の深かった福田氏に追悼の意を表すため十六年前の対談を再録した。これも頭をひねった末の対談企画である。(大島信三)


【社告】雑誌「正論」2月号 ただいま発売中

[1995年01月03日 東京朝刊]

 雑誌「正論」2月号の主な内容は次の通り。

 ▽沈黙の北朝鮮を推理する(桜井よしこVs関川夏央)▽金正日はなぜ主席になれないか(佐藤勝巳)▽東京裁判史観の自覚せざる信奉者たち▽追悼再録 福田恆存氏、ワシントン・ポスト編集局長に迫る▽中国とドーピング(今福龍太)ほか。

 書店でお求めにくい方は年間予約をどうぞ。「何月号から」と明記して、はがきを〒100−77東京都千代田区大手町一ノ七ノ二、産経新聞社雑誌「正論」販売部A係へ。なお、年間購読料は12冊で七四四〇円(送料サービス)です。


新春「正論」対談(1) 戦後50年を総括する 佐伯彰一氏/西尾幹二氏

[1995年01月03日 東京朝刊]

 今年、十回目の節目を迎えた「正論大賞」(フジサンケイグループ主催)の受賞者、評論家(電気通信大学教授)、西尾幹二氏(五九)と、先輩格の文芸評論家、佐伯彰一氏(七二)が「戦後五十年を総括する」をメーンテーマに受賞記念対談をおこなった。西尾氏はドイツ、佐伯氏はアメリカ通としての国際的視野にたって、それぞれに鋭い分析と見解を展開し、この半世紀の大きく壊れた歴史の枠組みを再検討することによって、二十一世紀の日本の進路を明らかにした。

 【60年代】

 ◆自己防衛論に走った知識人 西尾氏

 佐伯 「戦後五十年」には、いろいろ総括論は出てくるが、本質論みたいなものが出てこない。ちょうど、この節目に福田恆存さんがお亡くなりになったが、福田さんは時事問題を本質的に考える名人でしてね。そういう意味では福田さんの死は象徴的です。

 西尾 それでは、正月早々ですが、福田先生の追悼から始めましょうか。

 佐伯 福田さんはよく、常識にかえれとおっしゃったが、そこへ結論がいくかどうか分からないけど、長い歴史の物差しというか、大きなパースペクティブでとらえ直す必要みたいなとこに落ち着けばいいと僕流に考えてきたんですが。

 西尾 最近、自民党が五〇年代に政治資金をアメリカから得ていたとか、その前に社会党がソ連から政治資金をもらっていたという事実が明らかになって、六〇年安保というのは、日本の民衆運動でも、自主的政治行動でもなくて、米ソの「代理戦争」だったんじゃないかということが、いまにしてはっきりしてきた。

 佐伯 どうもそういうことが、戦後五十年たってみるといろいろ見えてきた。戦後の日本の幸いなことは、ある意味で三八度線やベルリンの壁が、現実の壁はなかったんですね。ところが、いまあなたがいわれたような安保論議その他のものを振り返ってみると、見えざる壁は明らかにあったといいたいな。

 西尾 ベルリンの壁ができたのは安保の翌年なんですね。私の学生時代というのは、そうした国際的な対立が激化の一途をたどっていた時期だったんですが、日本は分断国家にならなかった幸せの代償として、目に見えない三八度線が国内に引かれていた。いってみれば日本社会党という名前の東ドイツがちゃんと真ん中にあった。国民は一生懸命彼らを封じ込めて、社会党には百六十以上の議席はついに与えなかったし、一方自民党は、割れることをまったく許されない状況が続いたのも、結局国際的な政治の圧力がそういう力学を物理的に強制していた。

 佐伯 見えざる壁というのは、見えないだけにかえって悪質なとこもあったと思う。変に骨がらみにいろんなとこへしみ込んじゃうと。壁があれば対立そのものは現実だから、はっきり目に見えるんですが。なんか日本の場合、目に見えない形の壁が、日本人の政治感覚を随分ゆがめたり、不健全にしたような気がして、これが現在の自社連立にもつながってるな、と。

 冷静に考えてみると、あの時期に安保を破棄すると、アメリカとの軍事的関係を断つことになり、日本はそのままソ連圏に入るということは常識的にはだれでもわかるわけでね。それを見えないようなふりをして、日本は戦争に巻き込まれるとか、およそ軍事的なにおいがするものから自由になるんだという幻想を振りまいたわけです。

 西尾 「アメリカのやる戦争に巻き込まれる」という言葉がはやりましたね。

 佐伯 それが、若い学生ばかりじゃなくて随分多くの人を巻き込んで、あれほどの大騒動になった。そこで福田さんは『常識に還れ』というエッセーをお書きになって、僕もまったくそのとおりだと思ったんですけども、あの当時は常識から考えておかしな議論ばかりが幅を利かせた。

 西尾 全然違うところで議論してる。ですから、それが見えない壁なんですよね。

 佐伯 その直後(一九六二年)に僕はアメリカへ二年間行くことになったんですけども、それで離れて見たせいもあるけれど、アメリカ人から、どういう騒ぎなんだといわれると、説明がつかないんですよね。

 西尾 僕なりの六〇年安保の回顧をちょっとさせていただきますと、当時大学院の学生だったんですが、本郷のキャンパスは革命前夜のような雰囲気でした。ちょうど樺美智子さんが亡くなったときに、大学のキャンパスで、あれは警察官による虐殺だと社会党のある代議士が大演説をしてる会場に行きました。私の横に後に芥川賞作家になった柏原兵三がいまして、二人でそれを見てて、私が大きな声で、「あれは虐殺じゃない、圧死だ」といったら、あの体の大きな柏原君の右手がパッと私の口を押さえましてね(笑い)、私のそでを引っ張って会場の外へ引きずり出したんですよ。つまり僕が殺されるのを恐れたんですよ、群集心理の勢いでね。僕はそういうときにおっちょこちょいなんだけど、柏原は慎重な男で、早くもそれを察して、僕は命拾いしたのかもしれない。

 佐伯 その当時の雰囲気を、いまのエピソードは生々しくよみがえらせますね。へたしたらあなたはブン殴られるか、殺されかねないような。そういうクレージーな群衆騒ぎって、日本では時々起こりましたけど、あのとき、まさにそうでしたね。

 西尾 先生、どうなんでしょうか。私の記憶ではあの当時、明日にも革命が起こる情勢ではなかったけど、必ず革命が起こるという、そういう確信ないしは不安は、一般的に若い学生の間にはあって、たとえば時々雑誌などを読んでると、穏健であるはずの知識人や作家が左翼にこびるような文章を書くんですね。つまり、おやっと思わせるわけ。それはなにか人民裁判があるときのための自己防御の論理を張ってるんじゃないかと。そんなことをこちらがすぐ猜疑したくなるような時代であったということも事実なんですね。

 佐伯 それは戦後二、三年たったころから、いつか革命が起こりそうだと。そのころ二・一ゼネストということがあって、占領軍がストを止めたというような事件もあったけど、一つは中国革命の成功があって、野坂参三が中国から帰ってきて、“愛される共産党”という演説なんかしたわけだけど、あのころからなんか一種の革命待望の心理がかなり広がった。そのときにバスに乗り遅れるな、あるいはそのときに圧殺されたら大変だという、わが身かわいやみたいな気持ちと、恐怖観念とが裏返しになって、見えざる圧力として、それが六〇年安保にまでそのまま流れ込んでいった。

 日本人全部じゃないんですけども、少なくともインテリを巻き込んだ、そうした雰囲気があったということは案外、小説にも、評論にもちゃんと書かれてない。

 西尾 書かれてないですね。

 佐伯 ここでちょっと話がズレるけれども、亡くなった山本七平さんの持論の「日本における空気の研究」、そういう見えざる空気が結構、ずいぶんと人を縛ったり、踊らせたり、動かせたりしてきたということは、歴史を顧みるとき、一番大事なことだと思うのね。

 西尾 ところが、歴史の議論となると、なんか一番すっぽ抜けるのが、フ的な話ですね。具体的な心理ですね、心の。

 佐伯 そこに働いてたエモーションと、大きな動きとのつながりが、見逃されやすい。が、どうも五十年と限らず、戦前も含めて考えると、戦前には違った形で強力な「空気」が日本にありましたね。僕らがちょうど高校生から大学に入ったところで日米戦争ですけど、あの間の、その前に昭和十年代初めぐらいから雑誌とかなんか読むようになりましたが、意外なぐらいに素早くぐっぐっぐっと戦争気分、危機気分のなかにのめり込んでいったな。

 西尾 それも目に見えない流れだったんですか。

 佐伯 そうなると、それから離れたような言説に逆に心引かれたんで、たとえば田中美知太郎先生、ちょっと違ったタイプでは林達夫さんとか、少数のさめた言論というものがあって、それ読むとほっとするような気がしました。そのころいやな言葉で“バスに乗り遅れるな”という言葉がはやったわけですよね。

 西尾 それは戦前、日本がドイツと一緒になるなんていうことは、むしろ抵抗が強かったのに、ヒトラーがパリを占領したと思ったら、あっという間に日独協定。つまり“バスに乗り遅れるな”という、日本の政治の本当に困ったとこだと思うんですね。

 【70年代】

 ◆共産主義すでに崩壊の兆し 佐伯氏

 佐伯 戦前と戦後でまるっきり方向が違うが、「まも僕は変わらないような気がするし、『正論』欄が始まったころも、同じだったな。

 西尾 福田先生の勇気ある発言というお話が出ましたが、先生はあの反米気分の中で、はっきりと日本はアメリカを盟主とする西側陣営にあることの自覚を持てといいまして、その一方で、甘ったれて対米防衛依存でいながら、旦那(だんな)の悪口をいって、ぬくぬく太っている、そういう妾(めかけ)根性を捨てろともいった。対米関係はしっかり固め、一方で日本は日本であることを守れという。実はその言論が日本の外交の進路に目に見えない形を与えて、そのあと永井陽之助さんや、高坂正堯さんたちが登場する道を開いたんですね。

 佐伯 あの人たちも初めは現実主義者たちというんで、相当レッテルを張られて、批判にさらされたりした。高坂さんなりにつらいこともあったかと思うぐらいですけどね。そういう「空気」に対する最初のチャレンジャー、またアナリストでもあったのはやっぱり福田さんだと思うな。

 僕は六〇年代の最初二年間アメリカに行って帰ってくると、その間もアメリカもキューバ危機があったかと思うと、今度はケネディの暗殺といった、いろいろ出来事がありました。

 西尾 あれは正確には何年になりますか。

 佐伯 六三年の十一月でしたかね。その前に六二年に行ったとたんがキューバ危機で、あのとき僕の周りに当時の日本の留学生諸君が集まってきて、先生、こうなったらどこへ行ったらいいでしょう。どうやって日本へ帰りますかというから、そりゃ米ソが始まっちゃったら、どこにいても安全なところなしだから、もうバタバタするなって。

 西尾 本当に瀬戸際だったらしいですね。

 佐伯 ええ。本当です。アメリカがブロッケード張って待ってるところへミサイルを積んだソ連の船が来て、ぶつかったら撃沈するという決意は表明したわけだし。

 西尾 歴史的にも証明されているようですね。

 佐伯 ゴシップめいたことを付け加えると、就任直後のケネディが、確かウィーンかなんかでフルシチョフと会談したんですね。そのときに相手が若造をかなりみくびったみたいね。あいつならガンと一発やればヘナヘナして引き下がっちゃうと。こいつはブラフで押してやれと、どうも思ったらしいといわれてますね。しかしそこでケネディは踏みとどまって頑張ったわけで、フルシチョフもそこまで押したら本当に戦争になっちゃうから引き下がったと。あれは僕らも本当に肌寒い気がしたけども、アメリカの若い学生も、いよいよまた軍隊行きだなんていってたし、戦争も間近っていうふうな怖い気分が広がってましたね。

 西尾 私はケネディの暗殺で、日本のアメリカに対するイメージがかなり変わったと思うんですね。それまではレディーファーストと、ハリウッド映画が代表したところの、美しき、そして民主的なアメリカだと。

 佐伯 ハリウッド的ドリームランドみたいなね。

 西尾 ところがピストルを持った民主主義というような、銃社会ということについてついぞ知らなかった。どうなんでしょう。あのときからアメリカは変わり出してる。つまりベトナム戦争を契機に、ブラックパワーの爆発、アメリカの地底の帝国の露出というんでしょうか、隠されていた恥部が表に出てくる。それが公民権運動その他になるわけですが、そういう意味では、アメリカ自身の変質という問題がありますね。

 佐伯 それはもう非常に大きなテーマですね。二年間アメリカにいて、それからまた数年してアメリカ、カナダに戻ったりして、六〇年代のアメリカというのは大体、中にいたり、横目で見たりしながらいましたが、あの変ぼうはちょっと信じ難い変化でしたね。

 西尾 一種の文化革命ですよね。

 佐伯 あのころね、中国で文化大革命がはやりかけた。僕はジョークでよく、「いや、文化大革命が起こったのは、中国じゃなくてあなた方の国ですよ」といった覚えがあるんです。本当に文化革命でした。それは身近なことでいえば、アメリカというのは昔から非常に物堅い一面がある。

 たとえばお酒なんかについては、僕は一九五〇年に留学したときに、ウィスコンシン州のミルウォーキーですが、そこで大学へ初めていったときに、案内人が非常に誇らかにいったことは、このウィスコンシン大学には全米の大学にまったくない誇るべき特色が一つある。僕らは、えっと思って耳傾けますよね。そうするとこの大学は諸君、キャンパスでビールが飲めるんですと。こちらはあぜんとしたものだけど、気をつけてみると、あのころのアメリカでは日曜日に酒を売る店はまずなかったですね。

 西尾 手堅い国だったんですね。

 佐伯 ええ。下宿でビール飲むことはいいけど、おばさんに、空ビンなんかをめっけられるとうるさいから、ちゃんと自分で始末するんだよとかね。それぐらいにお酒というのは、なんか罪と悪の象徴みたいな感じが、まだ尾を引いてたわけですよね。

 西尾 黒人の位置の変化はどうだったですか。

 佐伯 黒人の位置の変化は五〇年代にはそんなにない。ただ黒人の人口移動というか、南部の黒人が戦争中に労働力として北部へ随分移ったわけですね。それからくるフリクションというのは、戦争中でもデトロイトで人種騒動なんかあって、黒人が死んだり、けがするということが起こったりしたらしい。でも五〇年代のアメリカはまず世界で最強かつ最も富める国であって、自信にあふれた、明るいオプチミスチックなイメージそのままみたいな面がありましたよね。もちろん六〇年代になって出てくるような面というのは潜んではいたんだけども、表向きはそれはまったく見えない感じでね。明るい、フランクで、善意のアメリカという。

 西尾 活力にも富んでいたし、集中力もあったといえるんですね。

 佐伯 そうなんです。本当に世界を引っ張っていく力を、経済的にも、エネルギーのうえでも持ってたと思いますね。そういうイメージがちょうどこっちは戦争に負けて五年目のときにぶつかったから、僕らとしてはアメリカは及び難い国というイメージがそこで焼き付けられたね。

 それが六三年のケネディの暗殺ということがあって、僕はケネディがそんなに偉い人だったという幻想を持ってるわけじゃないけれど…。アメリカの五〇年代から引き続いてきたオプチミズム、希望にあふれたアメリカというイメージをある程度代表し得るものを持ってたと思う。

 西尾 私のドイツの留学は一九六〇年代の中ごろなんですけれども、当時、私はミュンヘンのカトリック系の学生寮に暮らしてたんですが、一階までしか女性を入れることはできない。母親や姉妹といえども二階のフロアに上げてはいけないという決まりがあって、それは厳格なものだったんです。

 佐伯 アメリカもまったくそれに近いですね。

 西尾 ところが、それからまたたく間のうちに、ドイツはすっかり様変わりしました。学生寮も同棲状態になるし、大学にはカップルで来るということで、婚前交渉はまず当たり前で、相手をみつけるためにも必要だという考え方になるし。

 佐伯 だからあの六〇年代半ばの風俗革命というか、あれはフシギな現象ですよ。北欧が起点だという人もいるし、原因はいまだにはっきりはしないけどね。いままでの性についてのけじめというか、タブーってものが一気にガラガラッと壊れたんですね。

 西尾 ドイツでは最近、かなりの地位の人、学校の先生や、課長さんや、お医者さんなどインテリが、男三人女三人、あるいは男四人女四人ぐらいで、ヴォーンゲマインシャフトといって共同生活をして、性交渉も自由に行われるという、そういう時代に入ってきてるんですね。


【正論】評論家・西尾幹二 時代を操れると思う愚かさ

[1995年01月06日 東京朝刊]

 ◆時代の定義はいらない

 今年は戦争終結後五〇年めにあたる。

 われわれはあの戦争をすでに、半世紀も経った地点から眺めている。始まりがいつであったかなどをしきりに定義している。原因の新解釈も盛んである。けれどもあの戦争を戦った人間は、いちいちそんなことを考えて生きていたわけではない。何戦争などと定義して、戦ったわけでもない。

 例えば今のわれわれは、いかにもある一つの時代を生き始めているようにみえる。名付けようがないから冷戦後などと呼んでいるが、「後」と言っているのは新しい時代がなにも見えていない証拠である。われわれには今のこの「冷戦後」を、終わった地点から眺めるなどは、もちろん思いも及ぶまい。始まりがいつであるかも、本当は分かるまい。冷戦終結がけじめになっているのかどうかも、ずっと後になってみないと分からない。われわれはそんなことをいちいち考えて今を生きているわけではないであろう。生きるのに、何時代などと定義して生きるバカがいるだろうか。

 そして、あの戦争を戦った当時の日本人もまた、今のわれわれと同じように生きる以外の生き方を知らなかったはずだ。

 昨年急逝された福田恆存氏は、自分は「大東亜戦争否定論の否定論者」だという名文句を吐いたことがある。あの戦争を肯定するとか、否定するとか、そういうことはことごとくおこがましい限りだという意味である。肯定するも否定するもない、人はあの戦争を運命として受け止め、生きたのである。そのむかし小林秀雄が、戦争の終わった時点で反省論者がいっぱい現れ出たので、「利口なやつはたんと反省するがいいさ。俺は反省なんかしないよ」と言ってのけたという名台詞と、どこか一脈つながっている。

 しかし利口な人間は後を絶たない。かつて林房雄の『大東亜戦争肯定論』は中央公論に連載されたののだが、この本は中央公論社からは出版されなかった。中央公論誌の元編集長でもあった評論家粕谷一希氏が、当時福田恆存氏の所へやってきた。私は現場にいたわけではなく、福田氏からの単なるまた聴きだが、粕谷氏が「福田先生、林房雄氏と先生とは同じだと世間では誤解していますよ。ここで自分は林房雄とは違うという評論を一本お書きになって身の証を立てた方がお得ではありませんか」と語ったそうだ。そのとき福田氏は烈火のごとく怒った。「私に踏み絵をさせる気か。私が他の思想家と違うか否かは、読者が決めることだ。私の言っていることが林房雄と違うことは、分かる者にはいつかは必ず分かる」

 ◆日清・日露当時に似て

 粕谷氏はあるいは事実は少し別だというかもしれない。私自身は福田氏の怒りのまだ冷めやらぬ時代にこれを聞いて、「踏み絵」以下の言葉づかいまではっきり覚えているが、福田氏の真意はつまりはこうだ。編集者は職業柄、対立し合っている執筆者とつき合わねばならぬことがある。自分が評価していない人の本も出さねばならぬときがある。しかし、思想の商人になってはならない。思想の商人とは執筆者を操る人間のことだ。執筆者を操っているつもりで、彼は何ものかに、つまりは世間の風潮に、社会の「空気」に操られている。

 しかしこれは勿論編集者だけの話ではない。大概の執筆者もたえず「踏み絵」を踏まされて生きていないか、こころに確かめられよ。大江健三郎がノーベル賞になると、マスコミが絶賛の嵐になるのはそのいい例である。

 冷戦後、世界では各地でゆっくりと、再び新たな帝国主義が生まれつつある。アジアでは中国が覇権へのきばを研ぎはじめた。中国市場をめぐって日米がしのぎを削る状況は、日露戦後から第一次大戦へかけての時代とそっくりだが、韓国が次第に中国に接近し、朝鮮半島そのものが日米から離反し、大陸に秋波を送る状況は、日清戦争の前に近いともいえる。今、韓国に最大の発言権を持っているのは中国であって、米国ではもはやない。米国は朝鮮半島に見切りをつけ始めている。昔と違うのはロシアとイギリスが手を引いていることと、日本に打つ手がないことだ。

 ◆後絶たぬ「利口な人間」

 昔の時代はなにひとつ参考にならないのに、状況は百年前に少しずつ似ている。いったい日清・日露まで日本はなぜ自分の羅針盤ひとつを頼りにして、何とか国を亡ぼさずに大過なく生き延びることに成功したのだろうか。自分の過去を否定したり反省したりする利口な人間がいなかったからだ。自分の時代を何時代だなどと定義して生きるような閑(ひま)人がいなかったからだ。未来が怒涛のごとく押し寄せてきても、小利口に生きる余裕は誰にもなかった。本当は第二次大戦だって、われわれはそのようにして生きたのである。それが軌道を踏み外した錯誤だったのかどうかも、じつをいうと、誰にもまだよく分からない。さらに五〇年、日清・日露と同じくらいの時間の距離ができなければ、なにひとつまともな、後世に恥じないですむ判断はできないだろう。時代を、他人を、社会を自由に操れると思っている者は、つねに目にみえぬ何ものかに操られ、振り向けば、風に吹き流された人生であったことに気がつくであろう。

 (にしお・かんじ)


「正論」25周年特集 自由と民主主義訴え25年 21世紀へまい進

[1998年01月04日 東京朝刊]

 産経新聞が日本の進路を考える論壇「正論」を創設して、今年六月二十五日で二十五周年を迎える。この間、世界的には共産主義が次々に崩壊して冷戦が終結、国内的には様々な構造、意識の変化が起きて「正論」路線の正しさ、先見性が証明された。しかし、二十一世紀に向けて我が国が抱える問題はまだ多い。今後も「正論」は自由と民主主義、そして未来の日本のために言論の場を提供する。

 戦後、進駐軍によって日本に植え付けられた民主主義は、未成熟なままに、戦前の日本のあらゆるものをすべて否定することが正義だとして定着した。

 いわゆる戦後民主主義と、それを金科玉条とする進歩的文化人が社会、論壇を支配し、国家や政治・行政、あるいは企業は権力であり、悪だととらえ、住民は弱者であり、常に善とする教条主義が世を覆い、教育もその方向一色に塗られた。

 反戦・平和といった、それ自体にはだれも異を唱えない言葉が絶対のイデオロギーとして掲げられ、国家や防衛を口にすれば、反動だの軍国主義だののらく印を押され、戦後民主主義に染まぬ言論は圧殺される状況が固定化した。

 「民主主義と自由のためにたたかう」を社の信条の筆頭にうたう産経新聞は、こうした状況は日本の進路を過つと判断。日本の良識を代表する知識人に自由に論陣を張ってもらうオピニオンの場として朝刊に「正論」を創設し、提供したのである。

 執筆者はメンバー制とし、扱うテーマ、内容は原則として執筆者にまかせ、日曜日を除いて連日掲載することで昭和四十八年六月二十五日からスタートした。

 執筆陣の矛先は戦後民主主義の欺まんや愚かしさに多く向けられた。例えば、排気ガス・騒音問題などをきっかけに、高度成長を批判し、日本の現状と将来をことさら否定的にとらえる勢力に対する田中美知太郎京大名誉教授(故人)の「また暗い予言者の時代」(四十八年七月四日)。

 「現在の暗い予言者たちにしても、わたしたちの環境汚染を本当に心配しているというよりは、日本の未来を暗く、暗く、描くことに、ひそかな“願望”を託しているのではないかと思われる節が少なくない。かれらにとっては、公害を非難したり、訴訟を起こしたりすることがすべてであって、それが解決の方向をとることは、むしろ困ることなのである。いわゆるベトナム和平にいちばんがっかりしたのは、ベトナム反戦の人たちであったのと同じことである。暗い予言者を落胆させる政治こそ求められなければならぬ」

 翌四十九年、ソ連(当時)の反体制作家、ソルジェニーツィン氏が逮捕されたことに抗議して、大江健三郎氏ら日本のロシア文学者、作家十四人がソ連当局に電報を打ったことについて、劇作・評論家の福田恆存氏(故人)は「ソ氏援護の声明に一筆啓上」(三月四日)と題して書いた。

 「奇妙なことを思い付くものだ。六年前のソ連軍チェコ侵犯の時、東京の街上には『ソ連の無法を許すな』という意味の黄色い立て看板があちこちに見受けられた。私はその愚かしさを密かに笑った。『許すな』とは誰にどうしろと言っているのか。日本人が日本の国内で『許すな』と言われてもどうしようも無いではないか。百貨店の特選売り場で舶来のハンドバックを買って、包みが出来上がるまで、口の中で『許すな、許すな』と呟いていろとでも言うのか。今度の十四義士の抗議声明も、あの黄色い立て看板と同様のものではないか」

 こう前置きして「あなた方は本気か」と次のように論を展開する。

 「ソ連という国は一党独裁で三権分立などということは無く、検察当局即裁判所、裁判所即政府、政府即共産党であることを、あなた方は知らないのか。そういう国に向かって『言論、思想、表現の自由こそが、人間社会の不可欠の要件である』などというのは、貴国は人間社会ではないといっているようなもので、失礼も度が過ぎるというものである」

 昭和五十一年には中国の周恩来首相、毛沢東主席が相次いで死去、中国の今後が大きな関心を呼ぶ。

 石川忠雄慶大教授は「どうなる 毛以後の中国」(七月八日)で「長期的には、現実主義路線が優位を占めるようになりそうである。しかし、中国におけるイデオロギー的、権力状況から考えて、直線的にこのような状態に急速に到達するとは思われない」と的確に予測し、「わが国の中国への対応はあまり性急なものであってはならないように思われるのである」と慎重な見極めを説いている。

 また、四十九年の時点で、作家の曽野綾子氏が「知りたい日本人妻の消息」(七月八日)と、昨年ようやく里帰りが実現した北朝鮮の日本人妻の問題をすでに取り上げているのはさすがにけい眼である。

 五十七年には、中国への「侵略」を「進出」へと書き改めさせたという教科書誤報事件が起き、誤った情報に基づいたまま、中国、韓国が我が国に抗議し、政府は「是正する」と表明した。いまも続く教科書問題、歴史教育問題の発端である。

 この騒動を、筑波大学長、福田信之氏は「彼ら(注、マスコミと左翼陣営のこと)は、かつて自民党の一部会が教科書批判を行ったとき、政治家は教育に口を出すなと主張した。にもかかわらず、外国政府の抗議は歓迎する。どういう神経の持ち主か。レーニンは『祖国に絶望させることが革命精神養成の道である』と説いたが、この意図に沿う勢力だけが歓迎する教科書では困りものである」と喝破した(八月四日「教科書騒動で笑うのは誰か」)。

 ◆安保、教科書問題、謝罪決議… “進むべき道”明示

 昭和六十四年はわずか七日で終わった。正月七日の早朝、天皇が崩御され、翌八日から元号は「平成」となった。

 「正論」は一月十日の渡部昇一上智大教授(「協調外交を喜ばれた陛下」)を皮切りに、作家の曽野綾子氏(「徳の高い天皇を頂いた幸福」)、文化人類学者シーラ・ジョンソン氏(「米国人は新天皇に好意的」)、柳谷謙介国際協力事業団総裁(「平成の皇室に寄せる期待」)など内外の執筆陣が昭和天皇の時代を回顧するとともに新天皇への期待を多彩に展開した。

 その一方で「大喪の礼」は神道型の葬儀で、公人が参加するのは、国家は特定の宗教を支援しないという憲法の精神に反するとの議論も一部マスコミで盛んに交わされてもいた。

 評論家の村松剛氏(故人)は「皇室の祭儀に国家がかかわることに反対している人びとの多くは、天皇の制度そのものへの反対論者である。ご大喪をどんな形にしてみても、どうせ非難はやめはしない」と厳しく弾劾し「国民統合の象徴の本葬に三権の長は堂々と出席してほしい」と訴えた。

 「ベルリンの壁」を越えて東西ドイツの市民が交歓する情景(平成元年十一月)は、世界中に衝撃と興奮と感動を与えた。

 きっかけとなったのはゴルバチョフ・ソ連共産党書記長の一連の改革路線だった。勝田吉太郎京大教授は同年四月六日の正論で「開明的なゴルバチョフ氏によるペレストロイカは、長い目でみるなら共産主義崩壊の、さらにはソ連帝国解体の不可避的な過程をおくらせるどころか、むしろ、かえって促進するのではなかろうか」と論じている。

 翌二年二月、ソ連共産党は一党独裁を放棄、東西冷戦終焉を告げた。だがそれは新たに民族問題のふたをはずすことにもなった。

 イラクが突如、クウェートを侵攻したのは二年八月二日だった。野田宣雄京大教授はすでに七月二十三日の正論で「共産主義との闘争に勝利した瞬間に、早くも足元を民族と宗教の問題が脅かしつつあることに気付かねばならない」と先見的に警鐘を鳴らしていた。

 米国を主力とする多国籍軍が武力制裁に踏み切ったのは三年一月十七日。湾岸戦争が始まった。

 多くの国々の若者たちが貴い命をかけて戦っているその最中に、日本の若者の血は一滴も流すことはできないと叫んだ野党のリーダーがいた。一部マスコミも武力制裁に批判的な論陣を張った。多国籍軍への国際貢献を迫られた政府は自衛隊の派遣を拒否する一方で、総額百三十億ドルの拠出を決めたが、カネだけで済まそうとする姿勢が逆に批判の的になった。

 本紙は、「正論」と「主張」が連動して、多国籍軍の行動を支持する論調を展開した。田久保忠衛杏林大教授は一月二十一日の正論で「国際社会で日本が何をすべきかとの意識の全く欠けた、多数の政治家を生んでしまったのは、安全保障をないがしろにしてきた戦後日本の報いである」と糾弾。評論家の海原治氏は「国連の活動を支持すると公言してきた日本政府は、具体的な行動を求められている。口先だけでは、国際社会で名誉ある地位を得ることは、不可能である」(一月二十五日)と論じた。

 国内外が大きく揺れるなか、五年七月の総選挙で自民党が過半数を割り、三十八年ぶりに政権の座を明け渡した。いわゆる五五年体制の終焉である。七党という少数政党の連立政権が、最初に口にしたのは「侵略戦争責任論」だった。

 小堀桂一郎東大教授は「細川・羽田両氏が口にする侵略戦争反省論は、多年の植民地支配から解放されたアジア民族主義の本音を完全に誤認したところから発する謬見で、この様な人達には国政を任せるわけにはゆかない」(八月十一日)と断言した。

 平成七年は阪神大震災、地下鉄サリン事件と世情を騒然とさせる事件、事故が相次いだ。

 江藤淳慶応大教授は八年一月五日に「その被害の大きさもさることながら、自・社・さきがけの村山連立内閣が、何ひとつ有効な対策を示せぬまま命脈を保ちつづけたという事実ほど、国民にとっての不幸はなかった」と政府の無策ぶりを批判、「内閣は国民にわびて退陣せよ」と鋭く迫った。

 まさにその日、村山首相が突然、退陣を表明した。

 二十一世紀を目前に、改めてこの国のあり方が問われている。これからの正論は、未だに根強くはびこる戦後民主主義の欺まんの仮面をはぐだけにとどまらず、次代の日本人に矜持(きょうじ)を抱かせるものでなければならないだろう=筆者の肩書は当時、正論の引用文は抜粋

 論説委員室 宗近良一

       荻原征三郎


 「正論大賞」受賞者一覧

 「正論大賞」は、フジサンケイグループの基本理念である「自由と民主主義のために闘う正論路線」を強化、発展させた個人、団体に贈られる年間賞。現在までの受賞者とその理由は以下の通り(敬称略、肩書は当時)。

 第1回(昭和60年) 渡部 昇一(上智大学教授)

            教科書問題などでの鋭い批判

 第2回( 同61年) 加藤  寛(慶応義塾大学名誉教授)

            行政改革の推進に尽力

 第3回( 同62年) 曽野 綾子(作家)

            日米関係で双方のおごりを大胆に指摘

 第4回( 同63年) 唐津  一(東海大学教授)

            日米摩擦で歯切れのよい提言

 第5回(平成元年)  竹村 健一(評論家)

            消費税問題などで建設的論議

 第6回( 同2年)  猪木 正道(平和安全保障研究所所長)

            一貫して共産主義の行き詰まりを主張

 第7回( 同3年)  堺屋 太一(作家)

            21世紀の日本像を提示

 第8回( 同4年)  西部  邁(評論家)

            形式的民主主義を鋭く批判

 第9回( 同5年)  上坂 冬子(ノンフィクション作家)

            慰安婦問題などでの骨太の評論

 第10回( 同6年) 西尾 幹二(電気通信大学教授)

            日独の戦争責任の考え方の相違を指摘

 第11回( 同7年) 岡崎 久彦(元駐タイ大使)

            明快な戦略論の展開

 第12回( 同8年) 田久保 忠衛(杏林大学社会科学部長)

            沖縄問題で勇気ある言論

 第13回( 同9年) 江藤  淳(文芸評論家)

            政治・経済・社会全般での格調高い言論


「正論」25周年特集 執筆者一覧

[1998年01月04日 東京朝刊]

 「正論」スタート時(昭和四十八年六月)の執筆陣は左記の十八氏。自由と民主主義の立場に立つ当時最高の顔触れだ。執筆者は終身会員制で、その後、順次、メンバーを増やし、現在は国内外の良識を代表する百七十人(外国人二十一人)にのぼっている=敬称略、五十音順。

 第一回メンバー(肩書は当時)

 京大教授、会田雄次▽都立大名誉教授、磯村英一▽防衛大校長、猪木正道▽東大教授、衞藤瀋吉▽慶大教授、気賀健三▽京都産業大教授、小谷豪冶郎▽日本文化会議専務理事、鈴木重信▽作家、曽野綾子▽京大名誉教授、田中美知太郎▽東大名誉教授、東畑精一▽東大教授、西義之▽東海大教授、林三郎▽劇作・評論家、福田恆存▽東教大理学部長、福田信之▽早大講師、武藤光朗▽文芸評論家、村松剛▽劇作・評論家、山崎正和▽京都産業大教授、若泉敬

 現メンバー(第一回メンバーは省略)

 ア行 作家、阿川弘之▽劇団四季代表、浅利慶太▽高等教育研究所理事長、天城勲▽米バンダービルト大教授、ジェームス・アワー▽韓国元文化相、李御寧▽国際日本文化研究センター教授、飯田経夫▽慶大教授、池井優▽評論家、池田清▽慶大教授、石井威望▽前慶応義塾長、石川忠雄▽作家、石原慎太郎▽拓大教授、井尻千男▽国際東アジア研究センター所長、市村真一▽青山学院教授、伊藤憲一▽京セラ名誉会長、稲盛和夫▽外交評論家、井上茂信▽学術情報センター所長、猪瀬博▽社会評論家、伊部英男▽早大教授、内田満▽大正大教授、江藤淳▽元駐米大使、大河原良雄▽東京女子医大名誉教授、太田和夫▽政策研究院助教授、大田弘子▽国際医療福祉大学長、大谷藤郎▽ジャーナリスト、大宅映子▽元駐タイ大使、岡崎久彦▽明大教授、岡野加穂留▽国際コンサルタント、岡本行夫▽慶大教授、小此木政夫▽国際医療福祉大教授、小田晋

 カ行 評論家、海原治▽阪大教授、加地伸行▽鈴鹿国際大学長、勝田吉太郎▽千葉商科大学長、加藤寛▽京大教授、加藤尚武▽中部高等学術研究所長、加藤秀俊▽ノンフィクション作家、上坂冬子▽東洋英和女学院大教授、神谷不二▽東海大教授、唐津一▽国際開発センター会長、河合三良▽国際日本文化研究センター所長、河合隼雄▽東大名誉教授、川野重任▽建築家、菊竹清訓▽新国立劇場運営財団理事長、木田宏▽慶大教授、城戸喜子▽評論家、木村尚三郎▽エッセイスト、木村治美▽国際日本文化研究センター教授、木村汎▽東工大名誉教授、清浦雷作▽評論家、草柳大蔵▽国際大教授、公文俊平▽中国問題研究家、桑原寿二▽慶大教授、小島朋之▽元駐日英大使、サー・ヒュー・コータッチ▽慶大教授、小林節▽富士ゼロックス会長、小林陽太郎▽明星大教授、小堀桂一郎

 サ行 世界平和研究所副会長、佐伯喜一▽京大教授、佐伯啓思▽評論家、佐伯彰一▽作家、堺屋太一▽東工大名誉教授、崎川範行▽評論家、櫻田淳▽防大教授、佐瀬昌盛▽元内閣安全保障室長、佐々淳行▽政策研究院教授、佐藤誠三郎▽弁護士、佐藤欣子▽現代コリア研究所長、佐藤勝巳▽京都府立医大名誉教授、鯖田豊之▽帝京大教授、志方俊之▽慶大教授、島田晴雄▽米MIT教授、ヘンリー・ジャコビー▽文化人類学者、シーラ・ジョンソン▽武庫川女子大教授、新堀通也▽作家、鈴木明▽元米大統領報道官、ラリー・スピークス▽英コラムニスト、ジェフリー・スミス▽都立大名誉教授、関嘉彦▽NEC会長、関本忠弘▽作家、瀬戸内寂聴▽裏千家家元、千宗室▽慶大教授、曾根泰教

 タ行 薬師寺管主、高田好胤▽慶大教授、高橋潤二郎▽駐フィンランド大使、高原須美子▽杏林大教授、田久保忠衛▽評論家、竹村健一▽評論家、谷沢永一▽政治評論家、俵孝太郎▽建築家、丹下健三▽前タイ国立開発行政研究所長、ソムサク・チュートー▽流通経済大教授、辻村明▽元ファー・イースタン・エコノミック・レビュー誌編集長、デレク・デービス▽新潟経営大学長、鳥羽欽一郎▽未来学者、アルビン・トフラー▽昭和女子大特任教授、外山滋比古▽元北方領土復帰期成同盟会長、堂垣内尚弘

 ナ行 外交評論家、中川融▽東京外大学長、中嶋嶺雄▽一橋大教授、中谷巌▽平成国際大学長、中村勝範▽元駐仏大使、中山賀博▽電気通信大教授、西尾幹二▽前東北大総長、西澤潤一▽評論家、西部邁▽河合塾進学教育本部長、丹羽武夫▽南山大教授、野田宣雄

 ハ行 東工大名誉教授、芳賀綏▽埼玉大教授、長谷川三千子▽元法相、秦野章▽統計数理研究所名誉教授、林知己夫▽アサヒビール会長、樋口広太郎▽経済評論家、久水宏之▽杏林大教授、平松茂雄▽作家、深田祐介▽文芸評論家、福田和也▽ランド研究所顧問、フランシス・フクヤマ▽元米国家安全保障担当大統領補佐官、ズビグニュー・ブレジンスキー▽東大教授、藤岡信勝▽外交評論家、藤崎万里▽神田外語大名誉教授、アリフィン・ベイ▽国策研究会相談役、法眼晋作▽元学習院大教授、アイバン・ホール▽成城学園長、本間長世

 マ行 阪大名誉教授、前田嘉明▽三菱総研相談役、牧野昇▽国際政治学者、舛添要一▽政治分析者、松崎哲久▽評論家、松本健一▽東京三菱銀行参与、真野輝彦▽慶大教授、丸尾直美▽元駐日米大使、マイク・マンスフィールド▽作家、三浦朱門▽前産経新聞編集顧問、三雲四郎▽医事評論家、水野肇▽中東調査会理事、三宅和助▽元防衛研第二研究室長、宮内邦子▽慶大教授、宮沢浩一▽参院議員、宮沢弘▽鉄鋼労連顧問、宮田義二▽麗澤大教授、ロナルド・モース▽国際問題評論家、桃井真▽お茶の水女子大名誉教授、森隆夫▽元東大総長、森亘▽秩父小野田取締役相談役、諸井虔

 ヤ行 外務省顧問、柳谷謙介▽元京大教授、矢野暢▽評論家、山室章▽元同志社大教授、山本明▽聖ヨハネ会桜町病院ホスピス科部長、山崎章郎▽政治評論家、屋山太郎▽京大教授、吉田和雄▽永世棋聖、米長邦雄

 ラ行 前米労働長官、ロバート・ライシュ▽仏・元レクスプレス誌編集長、ジャン・フランソワ・ルベル

 ワ行 仏・元フィガロ論説委員、パトリック・ワイズマン▽元米国防長官、キャスパー・ワインバーガー▽ポトマック・アソシエイツ所長、ウィリアム・ワッツ▽上智大教授、渡部昇一▽元損保事業総研会長、渡辺武


正論大賞受賞記念 小堀氏の講演要旨 私たちは古典の中に文化をみる

[2001年03月16日 東京朝刊]

 広い文脈の中で「伝統」というときは、われわれは「文化の伝統」ということを念頭において使っている。暗黙の了解がある。それなら、文化とは何かということだが、「文治教化」が二字に凝縮された形である。

 日本の近代では文明開化の概念と重ね合わせて使われている。その重ね合わせは効果的で、文明開化によって開かれた、便利さ、能率の良さを謳歌する響きがある。

 文明開化の時代は欧米文明礼賛化の傾向が強かった時代。特に明治の人は、自分たちが文化として理解しているものを、欧米人はどう呼んでいるのか、気にかけていた。語源をたどると文化とは「耕す」「栽培する」という意味。西洋ではそこから人間という素材を培養し、育成するという意味で用いられている。だから文化とは「教養をつむ」ということだ、という考えが出てきた。

 文化の定義は、英国の詩人、T・S・エリオットの説を受けて故福田恆存(つねあり)さんが述べている「文化とはわたしたちの生き方である」という説がよく知られている。この定義は広く共感を得ている。福田さんは、文化とは意識的に追求するものではない、とも書いている。

 現在、教育基本法改正の声が出ている。私は著書の中で、ひとつの章を設けて、基本法の思想を批判したことがある。その思想の中で、はなはだ幼稚な誤りがみてとれる。

 これを起草した人は、文化というものが、工芸品のように人工的につくり出されるものだと思っているらしい。また、しかるべき教育を受けさせることによって文化を創造できる、と思っているらしいが、私はこれについては、文化観としても、教育観としても、基本的誤りがあると、断じたい。

 文化と普遍的性格とは相いれるものではない。個性豊かという性格も文化は持ちえない。

 本日のテーマは「文化の連続性を守る」という言葉で言いかえることができる。その連続性を保障するものはわれわれの言葉なのだが、現代人が古人(こじん)の言葉の格調様式を理解できないということが、文化の連続性の喪失である。こうした喪失に直面したとき、こころある人は、過去とのつながりを修復し、その復元を求めようとする。その復元作業の手がかりになるものが古典である。それは修復の重要なツールになる。

 われわれは古典の中に、自分の姿を発見する。決断や選択を迫られたとき、正しい適応を指南してくれるものは、その人の中に生きている文化であり、わたしたちは、古典の中に文化をみる。自分は間接的に日本人の文化の伝統の方向にしたがって行動していた、と解説させるような気分を味わって、安心感を抱くことになる。古典に触れることは自分の生き方の再発見である。

 「大和物語」と「今昔物語」には、「難波の浦の葦刈り」についての夫婦の物語が登場する。貧しい夫婦が一度わかれて、再会したとき、夫はアシを刈る「葦刈り」であるのに対し、妻は摂津守(せっつのかみ)の夫人となっていた。妻は夫を認め、歌を送り、夫は歌を返す。古代の説話集では珍しいものではないが、そのモチーフは「いたわり」と「廉恥心」。

 日本独特の心情であり、近代リアリズムの作家の作品とは違うもの。現代人は日本の夫婦の生き方、その基盤を成している感情関係にこんなみごとな凡例があることを忘れている。

 伝統の継承、文化の連続性を守るためにもう一つ、指摘しなければならないものがある。極めて世俗的になるが、相続税制の問題である。

 正論大賞の第一回受賞者である渡部昇一さんは、著書「歴史の鉄則」の中で、累進課税が破壊した「伝統と文化」について書いている。現実に、相続税を課せられるような家屋敷、美術品などを所有している財産家は当然、少数派である。

 私は大平内閣当時、政策研究の委託を受けたことがあり、相続税制のあり方を研究課題に提案した。ところが大蔵官僚は「そんなケースは数%にすぎない」として、討議するに値しないという意見を押し通した。

 だが、問題は累進課税方式による相続税が巻き起こす伝統文化断絶の例が多いか、少ないかということではない。この思想が日本社会に蔓延させている思想的害毒である。

 努力して貯めるよりも自分が元気なうちに使ってしまった方がよい。持つことが悪いとされる世の中なのだから、築いてこれを保つことより、最初から放棄してしまった方がましだ。こういった発想が形ある財物の次元から、形を有さない精神や感性の次元に及ぶことが危険なのである。


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